【江戸時代を学ぶ】 粋な江戸の男たち《2》 お次に控えしは『相撲取り』 〈25JKI00〉

相撲谷風101 0044『江戸の三男』の二人目は、「相撲取り」(「力士」ともいう)である。そのイメージは、現代の大相撲の力士とそう変わりはない。

相撲取り

お次に控えしは「相撲取り」。彼らに「与力」のような権力と渋さの両立はないが、(上方などとは違って)江戸の相撲では「待ったなし」を尊ぶ意気地があった。例え不利なタイミングであってもそのまま戦うのが美徳とされ、卑怯な「待った」は嫌われたのだ。

江戸ではそのような心意気が買われ、さっぱりとして豪快な気風に人気が集まったのだろう。彼らはまさに「裸百貫」の心意気を体現し、華やかな男伊達の集団であると見做されていた。

そして相撲は、単に格闘技として勝ち負けを争うだけではなく、土俵上で男性美を競うものとも受け取られていた。鍛えられた鋼の肉体は勿論のこと、髷は「髻(たぶさ)」(髪の毛を頭上に集め束ねたところ、「もとどり」とも云う)をその巨体に合わせて普通の男子より大きく結った「大髻(おおたぶさ)」は力強く、しめる廻しは緞子や綸子、綾繻子などの華美なものが多かった。また現在と同様に豪華な化粧廻しが既に用いられてもいたのだ。

 

我国の相撲の歴史は古く、この稿では詳細は省くが、そのルーツは神話時代にまで遡る。古代からその年の農作物の収穫を占う祭りの儀式として毎年行われてきたのだった。やがて天皇護衛の護身術・武術として発達し、聖武天皇の御代である神亀2年(726年)には「相撲の節会(せちえ)」、つまり諸国から相撲自慢の強者を集めた天覧試合が開催されている。

時代が下り鎌倉時代ともなると、相撲は武士の間で必須の武術となっていった。その後の武士社会では、多くの相撲巧者が大名たちに召し抱えられ、互いに勝敗を競い合った。

こうして相撲取りの専門職が集まって各地を巡り、有料で取り組みを観せる勧進相撲が始まる。元々は寺社の建立や修復の為の資金集めのためのものであったが、その後、今でいうプロ・スポーツ観覧の様なエンタメ興行的要素が中心となっていく。

江戸の相撲は、たびたび禁止されていた辻相撲が、貞享元年(1684年)に深川八幡で勧進相撲として催されて以来、幕府公認として行われたとされる。全国でも広く勧進相撲が開催されるようになり、江戸時代の中期以降には定期的に相撲興行が開かれることになった。やがて寛政3年(1791年)には、徳川家斉将軍のもと、上覧相撲が催されたのだ。この頃には谷風、小野川、雷電等の強豪力士が出現し、ルールや技も確立されて相撲の人気は急速に高まり、今日の大相撲の基礎が確立されるに至った。そして相撲は歌舞伎と並んで一般庶民の娯楽として重要な役割を果たす様になっていったのだ。

 

年にわずかな期間しか働かないのに、金に不自由せずに気っぶが良く豪快に遊ぶのが典型的な成功した相撲取りの姿であった。これは、さっぱりとした性格で男気があり、身なりが洗練されていて微かな色気がある、即ちまさしく江戸の「粋」な男の条件にマッチしていたのだった・・・。

-終、《3》に続く-

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