我国古今の名刀を紹介する本シリーズ記事(【名刀伝説】)では、今回以降、数回にわたり前回の粟田口“藤四郎”吉光の記事に関連して、彼の鍛えた刀剣たちを紹介していこうと思う。
そこで刀剣ファンに大人気の“藤四郎ファミリー大集合”の初回として、『前田藤四郎』・『薬研藤四郎』・『骨喰藤四郎』の3振(口)を取り上げたい。
また尚、作刀者の粟田口“藤四郎”吉光に関しては、前回の【名刀伝説】を合わせてお読み頂きたい。
前田藤四郎(まえだ とうしろう)
『前田藤四郎』は「吉光」の二字銘が切られている短刀。刃長は八寸一分でおよそ24.5cm。現在は前田育徳会が所蔵し、昭和8年(1933年)1月23日に重要文化財(旧国宝)に指定されている「享保名物帳」(徳川幕府・第8代将軍の吉宗の命により本阿弥家が鑑定、押形を取って作成した名物刀剣台帳)所載の名物の短刀。形状は平造りで真の棟、帽子は鋩子小丸、中心うぶで目釘孔は2個である。この短刀には反りがないのが特徴で、吉光作とされる短刀の中でも、美しく凛とした佇まいの短刀として有名である。
その名の由来には大きく二つの説があるが、先ずひとつは、前田孫四郎利政が所持していた事から名付けられたもの。利政は前田利家の次男で、能登守を名乗って能州(能登国)七尾城主だったが、関ヶ原の役の際に西軍に与した為(当初は東軍方、途中で西軍についたが消極的な行動に終始、石田三成に妻子が人質となったとの説もあり)、改易され領地を没収された。その後、京都に蟄居し、寛永10年(1633年)に角倉与市(長女の婚家先)の屋敷で死去した。享年56歳。
その嫡子の前田三左衛門直之は京都で生まれ、以後、祖母の芳春院(前田利家の正妻・おまつの方)の下で育ち、やがて彼女の尽力で3代目藩主の前田利常に召し出されていた(1616年頃、当初家禄は2千石)が、父の利政の死後(最終的な合計)1万1千石を与えられ、藩主の一門として“加賀八家”(1万石以上の年寄役・人持組頭〈上級の家老職相当〉であり、八つの家系が選ばれて“加賀八家”と呼ばれ、職責に関しては世襲制となる)の筆頭格として禄高は少ないが小松城代などの重職を命じられたと云う。こうして前田土佐守家(子孫に従五位下土佐守に叙された者が複数いた為に、この家名で呼ばれた)の祖となった彼は、この様な本宗家の厚遇に報いる為、この短刀を献上したとされている。以降は代々にわたり、加賀前田藩において受け継がれたとされる。
また美濃の孫六兼元作の刀『二念仏(にねんぶつ)』が同様の来歴で直之から加賀前田本宗家に伝わっているが、こちらは4代目藩主の前田綱紀の代(寛文元年(1661年)頃とされる)であり、『前田藤四郎』の献上よりも遅いとされる。
これに対して、利政の弟(利家の五男)である前田大和守利孝がはじめは所持していたという異説もある。利孝は元和2年(1616年)に大坂の陣の武功により、上州(上野国)甘楽郡において1万石を幕府より与えられ、初代の七日市藩主になった人物である。
但し、本阿弥長根が文化9年(1812年)3月、前田家の蔵刀の御手入れをした際の記録には「前田三左衛門上る」とあるが、これは鞘書きに「前田三左衛門上 延宝八年十二月代百枚上ル」と記されていた事に拠ったものとされている。代付けはその後、更に上がって、五千貫となった。
つまり本阿弥長根の残した書付が真実であれば、利孝所持説は誤りとなるのだが、現在ではこの説は間違いの可能性が高いとされている。
また「享保名物帳」にも、「松平加賀守殿 前田(藤四郎) 銘有 長さ八寸壱分 代五千貫 前田孫四郎所持、息三左衛門より加賀宰相殿へ上る。孫四郎は利家卿御二男也。今前田近江守先祖也。」と記載されている。
現在は前田家伝来の品を保存・管理する前田育徳会が所蔵し、石川県に寄託されている。尚、同じく前田家伝来の品である『大典太光世』もこちらの所蔵である。
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