昨日の知人との会合で、好きな言葉、所謂“座右の銘”を問われて思わず「一所懸命(イッショケンメイ)」と答えた。あくまで「一生(イッショー)」ではないヨ、「一所(イッショ)」だヨ、と申し上げたが、真意が周囲に伝わった様子はなかった。しかしその場は詳しい解説をする雰囲気でもなかったし、また時間もなく次の話題へと移っていったので、そのままにして帰宅したのだった‥‥。
さて「一所懸命」とは、「我国、中世(鎌倉時代以降)の武士が獲得した“一か所”の領地を命懸けで守り、そこを一族の生活の頼りとして生きたこと」に由来した言葉。そこから「所領を守る」や「命懸けで取り組む」、「切羽詰った状態」など、実に様々な意味・形で使われた。
武士たちの多くが如何にその領地にこだわったかは、この「一所懸命」の地名を自らの家の名乗りとしたことに如実に現われている。しかも自らの拠る土地の名を家名として、その領地と家名を子々孫々へ伝えていくことに汲々とし執着したのだった。
封建制度下の武家政権の時代は、武士たちは武力をもって主君を支え、その見返りとして主君が家臣である武士たちに封土を給与した時代である。しかし、武士の名誉だの家名などは何よりも土地の支配権があってのことであり、即ち彼らは、好むと好まざるとに関わらず「一所懸命」の土地に強く縛られていたのだ。
だが近世以降、この「一所懸命」の意味は転じて「物事を人生をかけて命懸けで行うということ」に変化した。発音が似ていたことから誤用されて、使用される文字も「一所」が「一生」と書かれる様になり、当然、発音も「イッショケンメイ」から「イッショウケンメイ」に変わった。現代では、ほぼ間違いなく「一所懸命」よりも「一生懸命」と表記・表現される場合が多くなっていよう。
複数の辞書が現在でも両方を見出し語として載せているが、大概の新聞社や出版社では特に指定がない限りは「一生懸命」に統一していると云う。NHKなどによるとTV放送でも「一生懸命」を使っているそうだ。
ところで、「一所懸命」と同じ「一所」を使った四字熟語に「一所不住(イッショフジュウ)」がある。あまり聞きなれない言葉だが、これは「主として行脚僧が諸所をまわって“一か所”に定住しないこと」から転じて「居所が一定しない様子」などを意味する。読み方も稀に「イッショフジュ」と読むこともあるし、同じ意味の言葉として「一所不在(イッショフザイ)」もある。
この「一所不住」は、鎌倉武士がその存在の信条とした「一所懸命」の思想に反抗するかの様に、遍歴・漂白を続けた同時代の僧侶・一遍上人と彼が率いた時衆の門徒たちの、特定の寺院に依存しない「一所不住」の諸国遊行が生み出したものとも云えよう。
ある種の考え方によっては、自らは農作を行わない武士たちによる農耕時代を代表する「一所懸命」思想と、定住する必要がなかった狩猟時代の姿であるが如くの「一所不住」の思想のどちらもが、歴史上、ほぼ同じ時期において顕在化したことに、偶然以上の何かを感じずには負えない。
だが勿論、鎌倉幕府の有力御家人であった伊予・河野家の末裔である一遍(俗名は河野時氏とも、一族の所領争いなどが原因で出家したとされる)が興した時宗の教えの根底には、「一所懸命」に殉ずる武士階級からの離脱と解放といった問題が水面下に横たわっていることは承知しているが、本稿ではこの点については深くは言及しないでおく。つまり何が言いたいかというと、上記の偶然云々はきっと必然であるのだと思うのだ‥。
多くの人々が「一生」バージョンの方を使うのは、現代では至極当然のことなのだが、せめてかつての武士たちの「一所」にかける子孫繁栄を願った必死の想いや覚悟、そして切羽詰ったギリギリの行動を知った上で、皆様がこの言葉を使用することを望むのは大層欲張りな要求なんだろうか? 周りからはそんな大袈裟なと言われそうだが、それが筆者の偽らざる気持ちなのである。
-終-
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