薬研藤四郎(やげん とうしろう)
『薬研藤四郎』は「享保名物帳」の焼失の部に所載(「信長公御物 焼身」:本能寺にて消失)の、粟田口“藤四郎”吉光の作の短刀。別名を『薬研徹(通)し 吉光(やげんとおし よしみつ)』とも。刃長は一般的に八寸三分(25.1 cm)とされるが、一部には九寸五分(約28.5cm)とも伝わり、茎に「吉光」の二字銘を切る。
作風は、平造り、平造りで刃(文)紋は直刃、鋩子は小丸となる。。うぶ中心で目釘孔1個。これには拵えがついていて、鎺は金の呑み込み、柄の頭と縁は同作で、鞘は長さ一尺一寸五分(約34.8cm)、黒塗り、但し腰元は縄目の金で巻き、笄は古後藤の作で銅は赤銅、壺桐の紋があり耳は金だったとされる。
その由来は、室町期の明応2年(1493年)の“明応の政変”で河内国渋川郡賀美郷の正覚寺城を細川政元や畠山義豊らの軍に包囲された元室町幕府管領の畠山政長が、子の尚順を逃した後にこの『薬研藤四郎』で自害しようとした際に、何度試してもうまく腹が切れないことに立腹した政長がこの短刀を苛立ちに任せて投げ棄てたところ、傍にあった薬研を見事に貫いて突き刺さった。
そこでその時、政長の家来の丹下備後守が自分の差料であった『信国』で我が膝を二度刺して切れ味を試した後にこれを政長に差出し、政長は『薬研藤四郎』の代わりにその『信国』で自らの腹を十文字に掻き切って果てたと云う(「畠山記」より)。
この出来事から「“藤四郎”吉光の短刀は、切れ味は抜群だが主人の腹は決して切らない」・「薬研には刺さる業物だが、主人は傷つけない律義もの」と評判になり、それがいつしか伝説となった。
ちなみに薬研(やげん)とは、“くすりおとし”ともいい、漢方薬などを作る時に薬効を持つ薬草や薬石等の薬種を細かく挽くのに用いる道具で、石製の他に鉄製や木製、陶製などがある。
ところでこの短刀、元々は足利義満の佩刀で足利家歴代の『薬研徹し』ともされる。これが『薬研藤四郎』と同一の短刀とは断言は出来ないがその可能性は高く、“明徳の乱”(1391年)直後の成立と見られる「明徳記」の明徳2年(1391年)12月の項(山名氏清や満幸らが、明徳2年の12月に京都に攻め上った際に、将軍・義満は『篠作』と『二つ銘則宗』(異説に、これが『骨食』だとする伝えあり)の太刀と共に、この『薬研徹し』を佩いて出陣したとされる(諸説あり)。刃長は不明であるが、中心の長さからみて『薬研藤四郎』である可能性は否定出来ないとされる)の記述において義満の所持刀であったと伝えており、それ故に前述の“明応の政変”より100年も前に史料に登場しているこの『薬研藤四郎』は、前々から既に足利家の家宝であったと考える専門家も多い。
羽皐隠史(高瀬羽皐)が著わした「享保名物帳」の写しである「詳註刀剣名物帳」では足利将軍家伝来の名刀と断定している。いち早く足利家において「薬研徹しと云い‥」とされて『薬研徹し』の名称が定着していたこともあり、そうなると“明応の政変”の際の『薬研藤四郎』にまつわるエピソードは誤伝ということになるが、しかし畠山政長の逸話に因む命名説を支持する刀剣好きな人々には、“明応の政変”においては政長の畠山家にあったものが、以後、再び足利将軍家に戻ったと云う、いささか強引な説を開陳している。
そしてその後、再び足利将軍家の所有となり、13代足利義輝を攻め亡ぼした松永弾正が強奪して所持していたが、織田信長が上洛した際に弾正は大名物の『九十九髪茄子』を差し出して臣従を誓い、元亀4年(1573年)正月10日、弾正は再度、信長に恭順の意を示して、岐阜にて『不動国行』と共に本刀を贈った。
天正8年(1580年)2月22日、京都に信長を訪ねた津田宗及(天王寺屋)に所蔵する22振の刀(脇指・短刀が14振、および太刀/腰物が8振)を披露した中に、この『薬研藤四郎』が含まれていたとされる(「享保名物帳」)。またその際の記録には、『薬研藤四郎』は足利義満の所持した名刀として名を連ねている。
その2年後の天正10年(1582年)、信長と共に“本能寺の変”にて失われてしまう『薬研藤四郎』であるが、しかし本当にこの短刀が本能寺で焼失したかについては、多少の議論と再考の余地がある。
一説には、“本能寺の変”の直後に安土城より持ち出されたが、坂本城に追い込まれた明智左馬助秀満が『不動国行』の太刀や『二字国俊』と共に天守から投げ下ろして、城を包囲していた堀秀政(名人久太郎)に託したという話も伝わっている。
だがあくまで「享保名物帳」では本能寺で焼(ヤケ)たとされるので、以後、再発見されて焼直しされたと考えるのが妥当であり、こうして『薬研藤四郎』は再び歴史上に浮上し、後に豊臣秀吉に献上され、その後は秀頼が秘蔵したという。
また「太閤御物刀絵図」(記載内容の異なる5冊が存在、“石田本(天正16年)”・“毛利本(文禄3年)”・“大友本(文禄4年)”・“埋忠本(元和元年)”・“中村本(慶長5年)”があり、元々は本阿弥又三郎光徳が作成したバージョンと、それを写したもの、更に埋忠寿斎明栄が写したもの、中村覚太夫が写したもの等から成る。「紙本墨書刀絵図」や「光徳刀絵図」・「光徳刀絵図集成」とも)にも一部を除き記載がある。
同書の“石田本”はこの『薬研藤四郎』から始まっており、“毛利本”や“埋忠本”でも記載が確認できる。但し「豊臣家御腰物帳」(本阿弥光徳が作成し、片桐且元が監修)には記載されていない。
この様に天正16年の“石田本”や文禄3年の“毛利本”に記載がありながら、慶長5年から慶長19年にかけて制作された「豊臣家御腰物帳」に記載がないことから、この間に豊臣家から離れた可能性もあるが、それにも関わらず元和元年の“埋忠本”に再び記載がある点についての事情は不明である。
ちなみに“埋忠本”では大坂の陣で焼けたものについては「ヤ」と記すが、『薬研藤四郎』についてはその記述が無い。つまり、大坂の陣ではなく、それ以前(“本能寺の変”)に焼けていた可能性を示唆しているとも云えるのだが、はたまた、その記載自体が不正確な情報なのだろうか‥。
その他の誤伝と思われる説には、畠山政長の自刃後に様々な経緯を経て豊臣秀吉が入手し、やがて子の秀頼に託した『薬研藤四郎』だが、秀頼はそれを慶長16年(1611年)3月28日、二条城会見の際に徳川家康に贈ったとする説があるが、どうもこれは誤りである可能性が極めて高い。
さて『薬研藤四郎』が、「太閤御物刀絵図」“埋忠本”の記述等を信用した場合、大坂の陣当時において大坂城に所在していたと仮定すると、落城後の行方が問題となる。またその後、江戸期においてどの様にして伝わったのかが、よく分からない。
「徳川実紀」の『台徳院殿御実紀』(徳川秀忠の記録)によれば、大坂夏の陣が終わった大坂城落城直後の元和元年(1615年)6月29日には、『薬研藤四郎』を河州(河内国)の農民が拾い、それを本阿弥光徳が入手した後に将軍・秀忠に献じて金百枚を授けられたとされているが、以降の『薬研藤四郎』の伝来が不明である。この様な著名な逸話を持つ名物が、忽然と刀剣史から姿を消すこと自体が尋常ではないのだが‥‥。
「享保名物帳」には、「信長公御物 薬研(藤四郎) 銘有 長さ八寸参分 無代 畠山尾張守政長所持。居城河内国正覚寺へ細川政元、畠山義豊責寄候時、明応九年四月五日政長生害の節此短刀にて腹切らんと曾て三度迄突立(て)けれども通らず。名作とて持伝(う)無益之道具かなと抛捨ければ傍に有之ける薬研へ突立、表裏二重を通(し)貫(く)。主の別(れ)を思(う)故か、丹下備前守信国鵜首造りの脇差にて我腹を二度突(く)、刃味よし是にて遊ばし候得とて出す。夫にて腹切る。夜の事也。元亀四年正月十日松永弾正父子尾州岐阜へ参向の刻信長公へ上る。京都本能寺にて焼る。」と記載されている。
尚、年代的には江戸期に入ってからの「光温押形」の著者である本阿弥光温(忠利、本阿弥家11代当主)の押形に所載されている『薬研藤四郎』は、長さ八寸で無銘であるので、何かの間違いによる別物と考えられている。
既述の通り、秀忠のもとに辿り着いた後の行方は杳として知れない。そして現在においても、真作の『薬研藤四郎』とされる刀の所在は確認されていない。そもそも『薬研』の由来となった畠山政長にまつわる話と足利家伝来の宝剣説についても矛盾があり、名高い名物ながらも謎の多い刀なのである‥‥。また伝承通りであるとすれば、度々実戦場において主の武将たちが帯びていた刀でもあり、複数の敗戦による焼失を体験している、所謂、歴戦の名刀と云えよう。
《広告》