骨喰藤四郎(ほねはみとうしろう)
粟田口“藤四郎”吉光の作で、当初は長刀(なぎなた)であったものを磨り上げて太刀とした“薙刀直し刀”であり、『吉光骨啄刀(よしみつ ほねばみとう)』ともいう。「享保名物帳」に所載(ヤケ)されており、史料によっては『骨食』・『骨啄』・『骨喰丸』・『骨噛み』とも記載されている。
本来の薙刀時点での刃長は一尺九寸五分(約59.1cm)ほどであったが、越前康継(三代)の焼き直しにより一尺九寸四分(約58.8cm)となった。反りは、四分七厘(1.42cm)である。
焼身になる以前と以後では刃文が異なり、焼き直し前はもと小乱れ、さき直刃、鋩子尖り尋常に返っていたが、焼き直し後は直刃ほつれに変わっている。鵜の首造りで、刀身の表の広い櫃の中には倶利伽羅(剣巻き)竜が浮き彫りとなっており、裏の櫃の中には梵字とその下に不動明王(火焔不動)の浮き彫りが入る。またこの梵字は、毘沙門天を表している。
中心は薙刀を脇差に直した際に切除されているが、残った中心の長さから判断すると元来は無銘だったとも考えられている。本阿弥家ではこれを吉光作と断定しているが、幾つかの古剣書にて異説も多い。
その名の由来は、対面して斬りつける真似をするだけで、その相手が骨まで砕かれるほどの凄まじい切れ味を感じることから、この様に命名されたと云う。また他の有力な語源としては、戯れに切る真似をしただけで相手の骨が砕けてしまうからとも、もしくはこの刀で切られると、骨を噛み砕かれる様な痛みを覚えるからとも云われ、まさしく諸説がある。
さてこの『骨喰藤四郎』は、元々は源頼朝から九州の大友家初代の大友能直が拝領した刀という(但しそうなると、『骨喰』は鎌倉時代中期の人とされる粟田口吉光の作とする説では時代設定が合致しない惧れがある)。その後、南北朝の動乱期、建武3年(1336年)に足利尊氏が都落ちをして九州に上陸した時、後に豊後国守護となる大友氏時(大友貞宗とも)が献上したとする説(既に『骨喰』との号で呼ばれていたとされる)があるが、同年に尊氏が九州・筑前国で“多々良浜の合戦”に臨んだ際には既に「御重代の『骨食』」を佩いていたとも伝わる。しかしこうなると、この刀は直前に大友家が献上したものなのか、元々から足利家の所有だったのかは微妙だということになる。だがともかく、尊氏の代から足利家にあったことはどの伝でも相違ないと考えられている様であり、こうして『鬼丸国綱』や『大典太光世』と並ぶ足利将軍家の宝剣となったとされる。
また、尊氏が帯びていたとすればこの時点では太刀だった可能性も残るが、後に室町幕府第9代将軍の足利義尚が、長享元年(1487年)9月12日に六角高頼を討伐する為(“六角征伐”)に江州(近江国)坂本に出陣した際に、「長享番帳」(長享期における室町幕府の業務日誌の様な書物)によると小者に「御長刀『ほねかみ』と申す御重代を担つ」がせていたとの記録があり、この『ほねかみ』は『骨喰』の可能性が高く、そうなると、この当時は薙刀だったことになるのだ。だがしかし薙刀となった時点や、その後に磨り上げられて太刀姿となった時期については諸説があり判然とはしない(戦国期に入って早々というのが有力)。
次いで、室町幕府の京都侍所所司代の多賀豊後守高忠が所持していたとの説もあり、将軍家から刀剣の鑑定に造詣の深い高忠へ与えられたとされるのだ。
この説では、高忠は永禄8年(1565年)5月19日、松永久秀が将軍・足利義輝を二条館に囲んで殺害した際に将軍と共に討死にしたので、彼の所持していた『骨喰』もこの時に久秀に分捕られたとされる。しかし現実には高忠はこの時よりも80年も前の文明18年(1486年)に死亡しているので、この説は誤りであろう。やはり久秀が将軍・義輝から簒奪したというのが正しいだろう。
一つの推定としては、何らかの仔細あって一時期は確かに多賀高忠が下賜されていたのだが、後の第13代将軍の足利義輝の代には将軍家の所有に戻っていたのではなかろうか。
こうしたそれ以前の経緯はともかく、『骨喰』が足利家から松永久秀に強奪されたという話を伝え聞いた(かつて足利家に『骨喰』を献上したとされる)大友家の第21代当主・大友宗麟は、家臣の毛利兵部少輔鎮実を使者として『骨喰』の返還を申し入れたのだった。結果は久秀がその申し入れを承諾し、『骨喰』は金額にすれば三千両にもなろうという高額の謝礼で大友家に戻ることになった。
ちなみにこの時、鎮実が『骨喰』を持ち帰る道中において、夜間、播磨灘の辺りに入ったところで幾千万の光が船を取り囲んで行く手を阻んだので、鎮実が「命のある限りこの刀を放さない!」と一喝すると光が忽ちに消え去った為に、竜宮に住む竜王もこの名刀を欲しがったのだとの逸話が残っている。
さてところがその後、薩摩の島津家の侵攻により危うく滅亡に瀕していた大友家は、天正15年(1587年)、豊臣秀吉の九州征伐によって島津家が降伏したことで大名家としての存続を得るが、この時、千利休から『骨喰』のことを聞き知った秀吉は利休を使者にして、宗麟の嗣子・大友義統から『骨喰』を召し上げたのだった。実際に秀吉が受け取ったのは、天正16年(1588年)の2月に大友宗麟が九州征伐の御礼で上洛した際ではないかと思われる。
またその時点(天正16年)で、石田三成の指示により本阿弥光徳が押形を取っているが、どうもこの際に磨上と磨きを行い、薙刀から大脇差へと変身したのだと考えられている。更に拵えの金具は埋忠寿斎が製作し、彫り物に斑(むら)があった為にそれを直したと記録されている。また同時に、中心尻を7分(約2.1cm)ほど切りつめたとの説もある。この為、天正17年(1589年)3月に秀吉が大友家から『骨喰』を召し上げたとする説が流布されているが、それは誤りとなろう。
以後『骨喰』は、大坂城では刀箱の一之箱に納められ、「豊臣家御腰物帳」でも筆頭に挙げられている。いかに秀吉がこの刀を高く評価していたかが分かるし、『骨喰』を大変気に入った彼は同剣を手に入れたことを周囲に大いに自慢したとされる。
「太閤御物刀絵図(光徳刀絵図)」において、『骨喰藤四郎』の押形は各々に少しく差異がみられる。“石田本”では龍の顔が他とやや異なり梵字が無い。“毛利本”では、既に茎尻が切り詰められ目釘孔が2個であるのに対して、“大友本”では茎が切り詰められる前で目釘孔は3個となっている。
その後、秀吉から秀頼に譲られた『骨喰』の行方については、大坂冬の陣の際に木村重成が佐竹義宣の陣を襲って功名を立てたので、秀頼が感状と共に『骨喰』を重成に与えたとする説がある。
次の夏の陣で、重成が井伊直孝勢と戦い討死にすると、『骨喰』は徳川方に奪い捕られて徳川家康へと届けられた。家康はそれを見て「秀頼より拝領の『骨喰』を佩いて討死にするとは、屍の上の面目というものだ」と感じ入ったとされ、本阿弥光室はまさにその家康の話を聞いたという。
だが、これにも異説があり、戦功を賞して秀頼からは感状と共に『相州正宗』の刀を与えようとしたが、重成は「勝利は家来たちの奮戦があったればこそで、それに討死覚悟の身になんで褒美などいりましょうか」と述べて、きっぱりと断ったと云う。
また、徳川幕府の譜代大名で上州館林城主となった秋元家に、差し表に「洛陽堀川住藤原国広上之」と切り、表に「道芝露 木村長門守」と金象嵌の入った刀が伝来していたとされ、これが重成討死の時の佩刀という説があるが、この『国広』の磨り上げ銘は偽銘であったとされる。
他説としては、元和元年(1615年)大坂城が落城して豊臣家が滅ぶと、『骨喰』も焼失したとか、あるいは秀頼の茶坊主が盗み出してはみたものの、これを売ろうとしても『骨喰』と聞くと誰もが恐れをなして買い手がつかなかったともされる。同様に大坂落城の後、阿州(河州の誤りか)の農民が拾って将軍・秀忠に差し出したとの話も伝わる。
だが、これらの説の中で最も有力なものは、落城の後に堀から出てきたものを近くの町人が本阿弥光室のもとに持ち込んだとされるものだ。奇跡的に回収された当該の刀を光室が検分すると、錆が浮き始めていたが間違いなく『骨喰』だったので、大変びっくりして早々に家康に見せたとされる。
更に異説には、重成が討死した時、井伊家の家来がその佩刀を強奪、光室へと売却に来たとも、あるいは分捕った井伊家の家来が京都の七条の寺において本阿弥光栄に売りつけ、それを本家の光室が二条城の家康の元に持参したともされる。
そこで家康は一旦は大いに喜んだが、「この刀は長くて重く自分の差料には向かないので、先ずは将軍(秀忠のこと)に見せてみては如何か」と申し伝えた。それで光室が伏見城にいた将軍・秀忠の許に持ち込んだところ、喜んで秀忠が買い上げたのだった。これは落城から10日ほど経ってのことだったが、褒美は白銀千枚とも銀三十枚とも、または黄金十枚とも金百両ともあって、諸説紛々である。
その後、明暦3年(1657年)正月、“明暦の大火”における江戸城炎上の際に『骨喰』も焼け身になった。そこで将軍家では、お抱え鍛冶の越前康継(三代)に修復・焼き直させたとされる。その後、紀州の徳川家が拝領していたが、明治2年7月、再び徳川宗家に返還された。
京都の豊国神社は徳川家康によって取り潰されていたが、明治元年、明治天皇の沙汰によって再建されることになった。そこで将軍家の後継者である徳川家達(徳川宗家第16代当主)は、『骨喰』に金百円を沿えて寄付した。この再建は国営だった為に、『骨喰』も国有となったが、大正の末年には豊国神社に下賜され、大正14年4月、旧国宝に指定され、戦後には重要文化財になった。現在は重要文化財として京都国立博物館へ寄託されている。
また尚、この刀の由来について「詳註刀剣名物帳」では、「秀吉公御物となる云々の記まで極めて要領を得ぬ書ざまなり」と記している。
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