骨喰の写し
明暦3年(1657年)の“明暦の大火”で焼身となる前に、将軍家お抱え鍛冶であった初代の越前康継による忠実な『骨喰藤四郎写し』が遺されており、現在は東京国立博物館の所蔵となっている。「太閤御物刀絵図(光徳刀絵図)」と比較すると、本科(写しの手本となった原刀のこと。本歌とも)を大変正確に写しており、本来の『骨喰』に極めて近いという。
この脇指は刃長が一尺九寸二分強(約58.2cm)、反り五分五厘(約1.7cm)、茎長が五寸(15.15cm)、茎反はなく銘文は表に「(葵紋)以南蛮鉄於武州江戸越前康継」、裏には「骨喰吉光模」とある。この写しは焼ける前のものであり、上述の様に『骨喰藤四郎』の本来の作風を知る上でも貴重とされる。ちなみにここでの「模」は、「かたどる、手本とする」を意味する。また成立は、慶長末年から元和初年頃の作と評されている。
一方、明暦3年(1657年)に焼け身となった本科の『骨喰藤四郎』は、3代目康継により修復・焼き直しされた後に紀伊徳川家に伝来したが、明治2年(1869年)7月に将軍家に戻された。
また、こうして非常に高名な名物であった『骨喰』には、上記の『大坂骨喰吉光模』の他にも幾つかの写しが作られている。
例えば、秀吉が所有する『骨喰藤四郎』を見た池田勝入斎恒興が、金房兵衛尉政次に頼み込み『骨喰写し』と呼ばれる刀を作らせたとされる。だが池田恒興は、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで討死にしており、仮に大友宗麟が、天正14年(1586年)の初回上洛時に『骨喰』を秀吉に献上していたとしても恒興の命で写すのは無理であり、従って写しを依頼したのは恒興の息子の池田三左衛門輝政ではないかと考えられる。
銘は「南都住藤原金房兵衛尉政次」で、刃長は二尺八分二厘弱(約63.1cm)と長く、反り八分五厘(約2.6cm)。表の櫃内火炎不動明王、裏の真の倶利迦羅の彫物も本科『骨喰』に類似している。後に恒興(実際には上記の通りに輝政か)はこれを加藤左馬助嘉明に贈っており、加藤嘉明の次女が池田恒興の四男(輝政の弟)である池田長政に嫁いでおり、その縁で贈られたものと思われる。しかし加藤嘉明は寛永8年(1631年)に病死、後を嫡男の明成が継いだが、藩内の内紛から大幅な減俸を受け、庶子の明友を藩主として近江水口藩2万石として存続するが、この時の混乱で『骨喰写し』も手放されたのではないかとの説が有力だ。
その後、雲州(出雲国)松江城主の松江松平家が所有することになったとされる。その経緯は、松江松平家が寛永15年(1638年)に信濃松本から転封した時、家臣団も増強され、旧福島正則家臣の大橋茂右衛門を6千石で家老として召し抱えているが、『骨喰写し』はこの頃には同家にあり、その流れで松江松平家に渡ったと云うのである。
明治期に入ってからは、波多野貞夫海軍中将、更に農本主義思想家で制度学者の権藤善太郎(権藤成卿)へと渡り、大正8年(1919年)に著名な刀剣蒐集家で茶人の河瀬虎三郎の所蔵となる。その後、昭和10年(1935年)に同家より売却されたとされる。
次回は引き続き吉光作と伝わる『平野藤四郎』と『鯰尾藤四郎』、そして『秋田藤四郎』を取り上げる予定なので、是非、ご期待願う。
-終-
他の関連記事は こちらから ⇒ 【名刀伝説】
【参考-1】写しが多く作られたのは大坂の陣の後で、“大坂御物”と呼ばれた名物が焼けた為にそれを再現・再刃した越前康継が同時に写しを作っていたことによる。またこの時、本科の名前を銘に切っている。
・「吉光 おやこ藤四郎」(本科:親子藤四郎)
・「吉光 一期一ふり」(本科:一期一振)
・「骨喰吉光模」(本科:骨喰藤四郎)
・「鯰尾藤四郎写し」(本科:鯰尾藤四郎)
【参考-2】『骨喰藤四郎』は、その名前から激しく攻撃的な印象を受けるが、本質は「守り刀」の位置付けだそうな。鍔元の不動妙王と毘沙門天を意味する梵字の組み合わせは、比叡山横川中堂三尊形式(左右の不動と毘沙門天、所有者を中心の観音菩薩とする)に見立てて、災難や戦の加護を得ようとしたとされる(京都国立博物館の解説より)。
【参考-3】写しは本科に比べて価値が低いと考えられがちだが、本科を忠実に再現・模写することは刀工の技術向上に寄与し、また現在で云うところの文化財保護の観点から、万が一にも本科が損なわれた場合を考慮すると大変重要な製作行為であり、写しという技術を重視していた先人たちの思慮は高く評価されるものである。
《スポンサードリンク》