混戦の渦中、味方が互いに相戦う「同士討ち」はよくあることの様だ。近代戦においても誤射や誤爆は頻繁に発生しているし、ましてや連絡手段や通信設備の不備なかつての戦闘では、この様な行き違いや失策は頻繁に起きたことだろうと思う。
そこで今回の記事では、【大坂の陣・外伝】として夏の陣で起きた徳川方の「同士討ち」について紹介してみたい。神保相茂が率いる小部隊が大軍の伊達勢に銃撃されて壊滅した事件であるが、良くも悪くも戦国の気風がバリバリに残る逸話と云えよう・・・。
神保相茂(じんぼう すけしげ)は、天正10年(1582年)に神保春茂の子として誕生した。相茂の神保家は、越中国の神保氏(室町幕府の管領・畠山氏の鎌倉時代以来の譜代家臣)と同族であったとされており、父・春茂の家系は神保長誠(じんぼう ながのぶ、畠山政長の郎党)から分派したもので、代々、畠山氏尾州家(畠山政長流)の家来として紀伊国有田郡石垣鳥屋城の城代を任されていたとされる。やがて畠山氏の没落後、春茂は豊臣秀長、次いで秀吉に仕え、大和国に6千石を領した。
家督を継いだ相茂は、慶長5年(1600年)、関ヶ原の合戦においては東軍(徳川家)に味方して、上杉景勝討伐に従軍して1千石の加増を得た。妻は杉若無心の娘で、子に茂明がいる。通称は長三郎、官途は出羽守。
子の神保茂明(じんぼう じげあきら)は、相茂の死後、徳川秀忠に仕え大身旗本として交代寄合を勤めた。寛永2年(1625年)には(旧領と同じく)7千石を賜った。寛永11年(1634年)には徳川家光に従い上洛、寛永17年(1640年)には甲府城の守備を命じられて、暫しこれに従事する。その後、慶安3年(1650年)に大安宅船の修理奉行に任じられた。天和2年(1682年)には官職を辞して隠居、その後、元禄4年(1691年)に死去、享年81歳。
さて慶長20年(1615年)、神保相茂は大坂夏の陣では300名程の小勢を率いて水野勝成(徳川家康の母方の従兄弟)の与力として果敢に戦うが、5月7日、船場口にて明石全登隊が越前勢の左翼を攻め崩したことで水野勝成隊も混乱に陥り、激戦の最中において神保隊・馬上32騎、雑兵293人は全滅し、相茂も討死したと伝わる(『寛政重修諸家譜』など)。
この時の様子を徳川幕府の公式記録である『徳川実紀』の中の『台徳院殿御実紀』では、神保勢は5月7日に明石隊との激戦において全滅したとされており、「此の戦に大和組の神保長三郎は、主従共に三十六騎馬同枕に討ち死にす」と記録されている。
しかし真説としては、神保隊の壊滅は突如後方より(味方の)伊達政宗の軍勢からの鉄砲による一斉射撃を受けたことによるとされている。そしてこの「伊達の味方討ち」に関しては、当時から確かな話として徳川方の諸将に広く伝わっていたらしく、島津家の『薩藩旧記』にも「伊達殿は今度味方討ち申され候こと。然りともいえども御前はよく候えども、諸大名衆笑いものにて比興との由、御取沙汰の由に候」と記されている。
この件につき、神保家の遺臣が水野勝成や本多正純らを介して伊達家に猛烈に抗議をしたが、その際、伊達政宗は「明石全登の軍勢によって神保隊が総崩れとなって敗走して来たので、共崩れを避けるために撃ち掛かったのであり、致し方のないことだった。(この様な場合)伊達の軍法には敵味方の区別はない」と、開き直りともとれる弁明をしたとされる(『薩藩旧記』巻六・『大坂夏陣推察記』など)。但しこの場合の味方討ちは、7日ではなく6日の道明寺の戦いで発生したのではあるまいか。また徳川方の諸将はこの出来事を政宗の裏切り行為として疑心暗鬼に陥り、引き上げる豊臣勢を追撃しようとはせず、暫し味方同士で睨み合いが続いたとも云う。
結局、わずか7千石の小大名である神保家と60万石の大々名・伊達家では争いにならず、結果として伊達家には何の咎めもなかった。あまりにも理不尽な結末だが、徳川幕府を支える有力大名の一角である伊達家を不用意に刺激するのは好ましくないとして、この伊達家の行いは不問とされたと考えられている。
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