【大坂の陣・外伝】 伊達政宗の犯罪。嗚呼、無念の神保相茂隊全滅!! 〈25JKI28〉

また概ね、伊達勢が神保隊を攻撃(味方討ち)したこと自体は確かなこととされるが、その原因・理由については諸説がある。あくまで事件の真相は不明であるが、上記の伊達政宗の弁明理由(敗走して来る神保隊の混乱に自軍が巻き込まれない様にする為)の他の説(『旧記雑録』、『慶長見聞書』、『難波戦記』等々)には、

1. 単純な誤射説や敵方との誤認説・・・これは戦場での混乱の中、伊達勢が神保の部隊を敵方と見誤って誤射したとするものであるが、戦場での固い規律を誇る伊達家としては浮足立った自軍の様子を対外的に認めたくはなかったのだと云う。また当初の誤射に気付いた後、徳川幕府からの叱責を恐れて、あえて証拠隠滅の為に神保隊を全滅させるまで射撃を続けたともされる。

更に珍説としては、伊達勢が7日に撃ち掛けた軍勢から、既(前日の6日)に討死したとされていた神保相茂とその家臣の名前で「我等は神保家の者、味方であるから撃つな」と何度も制止の声が聞こえてきた為、余計に怪しんで攻撃を続けたと云うものまであるが、これは本当の(生存していた)神保隊だったのではなかろうか・・・。即ち神保隊の壊滅は、混乱した戦場における生死に関わる誤報が引き起こした悲劇なのかも知れない。

2. 強引な攻撃手法との説・・・後藤基次隊を撃破する目的で、付近で休息中の神保勢を巻き添えに(しても構わないとの)強硬な攻撃を実行したとするが、当時の戦争では各家の功名争いから、相当に過激で強引な方法で戦闘を行っていたことにより起きた事故だったというもの(但しこの説も、6日の道明寺の戦いで発生したとする)。

3. 進軍の妨げであった神保勢を排除する為との説・・・上記の2.の説と似通っているが、激戦の中で疲労困憊し動けなくなっていた神保隊が自軍の前進路にあって邪魔だったので、銃撃して排除しようとしたというもの。しかし、これも現在の常識では有り得ない戦法であるが、この説は当時、周辺に布陣していた複数の味方軍勢からの証言もあり、かなり確度の高い話。

4. 神保勢の活躍に伊達勢が嫉妬していたとの説・・・この説の可能性は少ないと思われるが、当時の戦況において伊達勢にはこれといったは戦果がなく、一方で小部隊の神保勢が奮戦・活躍していたのを側らで見て、やっかんだ一部の家臣がつい鉄砲を撃ち掛けたのが発端との説。これも1.と同様に途中から引くに引けなくなり、大虐殺に繋がったとする。

5. 水野勝成と伊達政宗の確執に巻き込まれたとの説・・・この説もかなり確度の高いもの。道明寺・誉田村などでの戦いで、両家の間に随分とトラブルが発生している。我儘系でヤンチャな両将のこと、功名争いは熾烈であり、共に協力して手柄を相手に譲るということはなかった。また水野家は当時は3万石程度の小大名ではあったが家康に極めて近い親戚筋であり、対する伊達家は何と言っても元・奥州の覇者で60万石の大身であったから、両者ともにプライドでは負けられない立場でもあった。

誉田村での戦闘中には、伊達勢が水野家の家臣3人程を味方討ちにして乗馬を奪ったとされているが、逆に水野の家臣が伊達の兵を待ち伏せにして斬り殺しては彼(か)の馬を奪い返したとも云う。こうして両軍とも無茶苦茶なことを互いに繰り広げているのだが、小松山で前衛の後藤又兵衛基次の軍勢を壊滅させた後、道明寺付近で豊臣方(進軍して来た後衛の真田信繁、毛利勝永、明石全登、大野治長らの軍勢)と対峙した際に、勝成が隣陣の政宗に共同で豊臣勢に攻撃を仕掛けようと再三要請した(直接、面談もしたらしい)が、弾薬不足や死傷者の多さを理由に鰾膠(にべ)なく拒絶されてしまい、ここに二人の不仲は極まれり、といったところ。

こんな状況の下、水野勝成の与力として配属されていた神保隊は、伊達勢に格好の獲物として血祭りにあげられた、と云うのである。それにしてもとんでもなく迷惑なことで、神保相茂主従には誠に気の毒な出来事であった。

ちなみに大阪夏の陣では、水野勝成は度々にわたり主君・家康の命令を無視したこと(一軍の大将にも関わらず最前線で闘うこと)で家康の機嫌を損ねてしまった。例えば、小松山では前夜の内に単騎で先行、一番槍を挙げている。しかしその為、大坂の役の論功行賞では「戦功第二」(「第一」は松平忠明 )とされたにも拘わらず、大和郡山に3万石加増の6万石で転封されたにとどまる。勝成自身は少なくとも10万石以上の知行を期待していたとされるが、家康はそれを許さなかった。納得が行かない勝成に対して秀忠が、家康の隠居後には10万石の知行を約束したという話も伝わる。

 

勿論、この神保相茂隊の全滅に関わる話が、まったく偽りの伝聞である可能性もある。戦場で孤立して休息中の小勢・神保隊が、猛進して来た豊臣勢の一斉射撃で瞬く間に駆逐されたとしても、それほど不思議ではない。でもなぁ、やはり彼らが理不尽にも味方から攻撃された悲劇の小部隊と考える方が、状況証拠!?の積み重ねの結果としては正しい推測なのではなかろうか・・・。

-終-

※余談だが、格闘家の武蔵(本名:森 昭生)さんは、相茂の遠い子孫とされているが、『一休さん』に登場する蜷川新右エ門のモデルとなった蜷川親当(智蘊)も、武蔵さんの祖先とされる。

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