《戦国の終焉、大坂の陣の武将たち -13》 大野兄弟、大野治長と治房・治胤 〈25JKI28〉

さて肝心な治長だが、官位は従四位下・修理大夫であり、通称は修理/修理亮と呼ばれた。妻は南陽院で、男子には治徳・治安(弥十郎)がいた。また最終的な知行は1万5千石で、家紋は「大文字」とされる。

淀殿と乳兄妹の間柄にあった治長は、幼少の頃から側近くに仕え、北庄落城後に淀殿が秀吉の側室になると、彼も秀吉の馬廻衆として取り立てられて3千石を賜り、天正17年(1589年)には警固番二番隊長として和泉国佐野と丹後国大野で合計1万石を領する大名となり、大野城(現在は京丹後市大宮町口大野)を拠点として領国経営を進めた。しかしこの出世に関しても、(生存説の場合の)父親・定長および母親・大蔵卿局の功績に対しての褒賞であるとの説もあるのだが・・・。

秀吉存命中に関しては、治長は太閤の側近として公卿との交渉役を任されるなどの実績(大野弥三郎と称される人物の事績だが、若かりし頃の治長ではと考えられている)があり、また治長が文禄3年(1594年)には伏見城の普請に携わったという記録もあり、朝鮮出兵時には小勢ではあるが一軍を率いて肥前名護屋に在陣している。

そして秀吉の死後はそのままスライドして秀頼の重要な家臣となるが、その後の徳川・豊臣両家の政治対立の渦中において、彼も徳川方に警戒される豊臣家の忠臣の一人と目されていた。

慶長4年(1599年)、「家康暗殺疑惑事件」(前田利長・浅野長政・大野治長・土方雄久の4名が家康の暗殺を企んでいるとの増田長盛・長束正家からの密告にもとづき、該当の4人が家康により追及されて屈服、処分を受け入れた事件)の首謀者の一人として捕えられて、下総国に流罪(結城秀康の下に預けられた)とされた。

更にこの時、大蔵卿局も子の治長の罪に連座して罪に問われることになった。 淀殿は大蔵卿局の赦免に全力を尽くしたが力は及ばず、当時、京都にいた高台院(北政所、秀吉の正室)を頼り、高台院の赦免要求によってようやくに大蔵卿局は許されている。

ちなみに同じ年には、石田三成襲撃事件が起きているが、いづれの事件の結果も徳川家康は政敵の排除に成功、豊臣政権内での影響力・存在感をより大きくして政権の第一人者としての地位を揺るぎないものにした。但し、現在ではこの事件(「家康暗殺疑惑事件」)に関しては、家康と本多正信によって仕組まれた謀略・冤罪というのが有力な説である。

しかし治長は翌慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦において(結城家の監視下にあったこともあり)東軍に参加、戦功を上げたことで徳川家への謀反の罪を許された。

また何かと外交的活動に身を置いていた大蔵卿局も、石田三成一派と徳川家康の私闘的な戦いとされた関ヶ原の合戦(並びにその前後の争乱)においては、表面上は中立を貫いていた豊臣宗家(豊臣秀頼)の立場上、外交面などで迂闊な活動は出来ず、この時ばかりは和平交渉などの折衝事に関しても饗庭局(あえばのつぼね、もう一人の淀殿の乳母)などに任せている。

そしてこの時、西軍の総大将として擁立された五大老のひとりである毛利輝元の大坂入城を許し、関ヶ原では自らの親衛隊である七手組の一部が西軍に参加した秀頼であるが、本来、この戦いについては東西両軍ともに「故太閤(秀吉)の恩顧に報いる」・「豊臣家の跡継ぎ、秀頼公の御為に奉公する」との大義を掲げており、その結果、戦後において秀頼は家康を忠義者として労う形となった。

合戦の後、治長は家康の命を受けて「(徳川家康は)豊臣家に対して特段の敵意はない」との主旨の書状を持参して大坂城・豊臣家への使者を務めた後、江戸へは戻らずにそのまま大坂城に残ってしまう。以降、こうして再び大坂城に戻って来た治長は、もともと淀殿の信頼が厚かった事に加えて、官吏としての実務能力が秀でていた為に、三成亡き後、家老職として豊臣家内における実力者筆頭格となっていった。

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