《戦国の終焉、大坂の陣の武将たち -13》 大野兄弟、大野治長と治房・治胤 〈25JKI28〉

慶長19年(1614年)6月には、家康の口添えにより片桐且元の弟である片桐貞隆と共に秀頼より5千石を加増されるが、この返礼として貞隆と連れ立って駿府にいる大御所・家康並びに江戸の将軍・徳川秀忠を訪問している。

同慶長19年(1614年)7月26日、徳川家康が豊臣家の滅亡を企図した有名な鐘銘事件が起こる。この事件は、秀頼が家康の勧めで京都の方広寺の大仏を再建した際に鋳造した梵鐘の銘文中にあった『国家安康』の字句が家康の名を分断して徳川氏を呪詛し、また『君臣豊楽』の文字が豊臣家の繁栄を祈願していると強く非難して、大仏開眼を延期する様に圧力をかけたものである。

またこの事件は豊臣家を攻撃する口実として、家康が以心(金地院)崇伝らの建策で係争化させたとの説もあるが、近年の研究では文英清韓(梵鐘の銘文を起草した僧)の未熟で非常識な撰文により、徳川方からクレームがつくのも当然の内容だったとの考えもある。

さてそこで、当時の豊臣家の家老であった片桐且元や治長に起草者の清韓などが加わり、弁明の為に駿府へと派遣された。且元は崇伝や本多正純らへの釈明に務めたが、家康とは会見も許されなかった。しかし、別途遅れて駿府入りした大蔵卿局や二位局、正栄尼(秀頼の乳母で渡辺糺の母親)らとは家康はすんなりと面会しており、鐘銘の問題も特に話題とならずに丁重に応対されて彼女らは帰坂する。

だが且元には厳しい態度で臨み、その後、大坂城へと帰城した彼の(徳川方からの厳格な要求に関する)申し状と一方の女房どもの(徳川方の柔和な対応に関する)報告には大きな隔たりがあり、大坂方は混乱に陥る。その結果、大野治房や渡辺糺といった秀頼・淀殿の側近たちから且元は家康との内通を疑われるようになる。

こうして城内で四面楚歌となった片桐且元は慶長19年(1614年)10月、大坂城を退去し、様子を伺っていた他の良識派の武将たちも多くが大坂城を去った。

且元が本当に家康に内通していたかは難しいところだが、当時の両家の実力差から判断して徳川方には勝てないと考え、極力、融和政策をとって豊臣家の存続を図ろうとしていた事には違いない。片や大蔵卿局らは、権謀術数にかけては数枚も上手の徳川方に翻弄されて仕掛けられた離間の計にまんまと嵌り、狙い通りの報告を行ってしまった。

 

この片桐且元の豊臣家からの離脱以降、大野治長は家康から豊臣家を守ろうと奮闘し、より淀殿や主君の秀頼に尽くすこととなる。そして彼も現実の状況(強大な徳川家の実力)に直面することで、融和策を選択せざるを得ないことに気付き、なんとか交渉を重ねて豊臣家の存続を図ろうと考えていた。

しかしその後、徳川方との対立は日に日に増していき、大坂城内でも主戦派の意見が強くなり、和平派といってよい治長に対して弟の治房・治胤は主戦派の立場をとって彼と対立するに至り、いよいよ大阪の陣を迎えることとなる。

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