慶長19年10月(1614年11月)、遂に豊臣方では豊臣家に旧恩ある大名家や全国各地の牢人衆に檄を飛ばして参陣を促し、具体的な徳川方との戦争準備に着手する。兵糧米の買い入れを開始、また在坂の徳川家をはじめとした諸大名の蔵屋敷から蔵米を強制的に接収したり、籠城に備えて各種武具を購入し、総構の補修や新たな櫓や砦の建設なども進めた。
翌11月(12月)、大坂冬の陣に際しては真田信繁などの牢人勢は城外での攻勢を企図していたが、治長は強固な大阪城に立て籠もって攻城側の徳川勢が疲労するのを待ち、和平に持ち込むことを考えていた。
治長などの籠城派の豊臣家首脳陣としては、ここで時間を稼いでいる内に大御所・家康が亡くなるのを待つ作戦だったのだろう。なにしろ家康はこの時点で73歳にもなる高齢であり、いつ死んでも不思議ではない年齢(当時としては大変な高齢である)であった。そして現実にも、この後、2年ほどで亡くなっているのだ。即ち、当時の大坂方の戦備や戦力を鑑みれば、籠城は、その方針が徹底・貫徹さえしていれば現実的な作戦だったと考えられる。
結局、治長らの案が採用されて籠城と決し、防御と警戒の為に大阪城周辺にいくつもの砦が築かれた。有名な『真田丸』もその一つだが、あの地点に砦を造る計画は信繁の建議以前から後藤基次が準備していたとか、『前田丸』計画(前田家の屋敷を砦化する方策)として過去に存在していたともされる。
さて緒戦は、外縁部の砦の攻防に終始したが、数ヶ所の砦が陥落した後に豊臣方は残存の防衛拠点を破棄して大坂城に撤収した。以降、豊臣勢(約9~10万)が籠城した大坂城を徳川方は約20万弱の大軍で完全に包囲、そして仕寄(城に攻め寄せることの意だが、この場合は攻城の為の攻め手用遮蔽物や塹壕などのこと)の構築を行いながら徐々に接近していった。
そんな戦況の中で『真田丸』付近の激戦なども惹起され、各方面で豊臣方の奮戦もあったが、大砲による大坂城天守への砲撃が始まって城内でも被害が広がり、淀殿らが和平を主張する様になる。
そこで治長は、織田有楽斎と共に牢人達ちを説得して一時的な和平(休戦)に持ち込んだ。またこの時、治長は次男の治安を徳川方へ人質として差し出したとされる。
ちなみに冬の陣の和議の成立後、家康は自らのもとを訪れた治長を、「修理若輩と思ひしに、大坂籠城の張本人に罷りなり、弓矢取り候段武勇の儀申すに及ばず。秀頼へお忠節、はた浅からず(修理=治長は若輩と思っていたが、大坂城の主将としての武勇は言うに及ばず、秀頼公に対する忠誠は大変厚い)」と評したとされている。
しかしこの時の和平に関する条件内容については、陣後に外堀や二の丸と三の丸の埋め立てが行われて、予想以上に大坂城の防衛力を低下させて天下一の堅守の城は裸城となってしまったことで、城内の強硬派にとってはまったく納得出来ないものであった。結果的には豊臣方の将士の奮闘空しく、豊臣家は不利な和平条件を受け入れて冬の陣は終結したのである。
こうして一旦は休戦となるが、その後、大坂城の主戦派は反発を深めていった。そして和平派の代表とされた、徳川方との交渉役の治長は城内で襲われて負傷するが、しかもこの時の闇討ちの犯人は弟の治房(主戦派の急先鋒)だったとも伝わるのだ。
再び主戦派の発言力が強まり、以降の和平交渉は決裂。再度の開戦は避けられないと悟った豊臣方は最後の決戦に挑む事となるのだった。
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