《戦国の終焉、大坂の陣の武将たち -13》 大野兄弟、大野治長と治房・治胤 〈25JKI28〉

慶長20年(1615年)4月、和平交渉中の治長は(襲撃される直前に)徳川家康に使者を遣わして、豊臣家の移封については断る旨を伝えた。家康は常高院(淀殿の妹、初)を通じて「其の儀に於いては是非なき仕合せ」(そうであれば、仕方がない)と回答して、配下の諸大名に鳥羽・伏見方面に軍勢(約15~16万)を集結するよう命じた。

同じ頃、豊臣方では裸城での籠城戦では勝つ見込みが無いと判断して、野戦において家康の首級をあげようと画策、城外で徳川方に決戦を挑む事と決したが、城からの退去者(織田有楽斎など)も続出した為、戦力は冬の陣と比べて7~8万人へと減じた。

そして先ず治房の部隊が筒井定慶の守る大和郡山城を攻略、その後に堺を焼き打ち(後述)する。更に一揆勢と共闘しての紀州攻めを行うが、先鋒の塙直之・淡輪重政らが突出して浅野長晟の軍勢と戦い討死してしまった。この事態に治長らは攻勢に出て来た浅野隊を抑えるべく、しばらく堺周辺で戦った後に大坂城へと撤収した。

以降、道明寺・誉田合戦では後藤基次や薄田兼相らが戦死、八尾・若江合戦でも木村重成が討死し、豊臣方は相次いで敗戦を重ねて大坂城へと撤退を余儀なくされて、いよいよ最後の一戦を迎えることとなる。

慶長20年(1615年)5月7日、豊臣方は最終決戦を挑む為に大坂城から出陣し、治長は真田信繁や毛利勝永らの後方の天王寺付近に布陣した。やがて天王寺口方面の真田信繁・毛利勝永、そして弟の大野治房らが岡山口から突撃を繰り返し、徳川勢の前衛を突き崩した。

ところが治長はこれを好機と考え、秀頼の出陣を求めるべく大阪城に引き返してしまう。しかしこれを見ていた他の豊臣勢の諸将が治長が敵前で逃亡したと勘違いをして戦線に混乱が広がる中で、毛利勝永隊の活躍や真田信繁の赤備え隊の吶喊・奮戦で一時は家康本陣を強襲するなど、あと一歩まで大御所・家康を追い詰めた(信繁は討死)。

だが本来、兵力的にはるかに勝る徳川勢は間も無く混乱状態から復して態勢を立て直し、豊臣勢は多くの将士を失って壊滅する。その後、唯一戦線を維持した毛利勝永の指揮で、残余の豊臣勢は城内に総退却したのだった。

尚、一説には、治長は弟の治純から真田信繁や毛利勝永が徳川方に内通しているとの情報を受け(後述)、家康の謀略を警戒しつつも、完全には信繁らを信用できなかった様だ。天王寺・岡山決戦において七手組と共に真田隊の後方に布陣・展開したのも、万が一の信繁らの裏切りに備えての行動だったと見る向きもある。

そして突然、城に引き返した理由としては、真田隊・毛利隊のすさまじい突撃の様子に味方の攻勢を頼もしく思うよりは、土壇場で裏切った彼らが主君の秀頼を目がけて反転して攻めて来たら、城外では防ぎきれないと考えての行動だったとする珍説もあるのだ。

 

さて帰城した治長は淀殿に状況を報告したが、淀殿は総大将・秀頼の出陣に反対して、その出陣は急遽取り止めとなった。その後、本丸城内に徳川勢が続々と突入、味方のはずの牢人達ちも略奪・放火を始め、そしていつしか大坂城の天守にも火の手があがり、やがて大坂城は陥落した。

翌日、「今回の騒乱はこの大野治長一人の所業」として、治長は自分の命と引き換えに秀頼と淀殿の親子を助けて欲しいと願った結果、秀頼の正室・千姫(秀頼の娘で家康の孫)と常高院を大坂城本丸から脱出させて、千姫の父親である将軍・徳川秀忠の元に送り届けさせた。しかしこの願いは叶わず、また千姫による助命嘆願も受け入れられずに、秀頼親子は山里曲輪の籾蔵の中で自害した。

また治長の最後は、秀頼親子の自害を見届けた後に二人の首級を隠す為に山里曲輪に火を放ち、自らも自刃して果てたとされており、享年は47歳であった。この時、彼の長男・治徳や母の大蔵卿局も一緒に自害しており、また徳川方に人質に出していた次男の治安は処刑された。そしてその末後の身の処し方は、「大野修理沙汰して最後に切腹なり。手前の覚悟比類なし」(『春日社司祐範記』)と讃えられている。

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