さてこの時代、乳兄弟は本当の兄弟よりも絆が深かったとも云われ、淀殿と治長の間には絶対の信頼関係が築かれていたのだろう。父(実父の浅井長政・義父の柴田勝家)や母(信長の妹・市)を殺害した張本人である豊臣秀吉の側室となった淀殿にとって、乳母の大蔵卿局やその子の治長は数少ない心を許せる味方だったに相違ない。
また当時より、上記の様に大変親密な間柄であった治長と淀殿が不義密通をしていたとの噂話が広く流布していた。この事柄に関する記述は『多聞院日記』や姜沆による『看羊録』にも記載されている。そしてこの噂話から派生して、秀頼が秀吉の実子ではなく治長と淀殿の子であるとの説が真(まこと)しやかに語られることになる(『明良洪範』など)。だが、秀頼が大野治長の実子であったのではないか? という疑惑についての詳細は、その理由なども含め別稿に譲りたい。
ところで治長にも、妻や子供がいた。正室の名や出自は不明だが法名は南陽院(『雑華院過去帳』より)とされ、京都の妙心寺塔頭・雑華院に寺宝として彼女の肖像画が残っている。 治長は史料に残るほどの美男子であったとされるが、この妻も大変な美女だったとされ、同じく雑華院にある二条昭実夫人像(信長の娘で秀吉の側室だった三の丸殿)や龍安寺(妙心寺境外塔頭)にある細川昭元夫人像(信長の妹・お犬の方のことで、佐治一成の母)と共に、「三名幅」と称されている戦国の美人妻たちの一人である。
他の二人とも織田信長に縁のある女性(美人が多いことで有名)であり、治長夫人も織田家所縁の女性だったのではなかろうか・・・。そして彼女の大坂落城前後の消息は不明であるが、夫の治長と運命を共にしたのだろうか。但し、南陽院の没日は慶長15年6月12日頃もしくはそれ以前であり、大阪の陣当時は既に亡くなっていたとの有力な説もある。
また治長の子で判明している者としては、先ず長男の信濃守治徳だが、彼は大坂城落城時に父の治長と共に自害して果てた。次男の治安(弥十郎とも)は冬の陣の講和の際に人質として江戸に送られ、夏の陣の後に処刑(切腹)されている。更に娘の葛葉(千侍女)は治長の家臣、前田彦右衛門(米倉権右衛門とも)に守られて落城から落ち延びた(『韓川筆話』)とされるが、その享年は17歳と伝えられているので、大坂の陣後からそれ程時間を経ずに(数年後には)亡くなったと考えられている。
更に治長は、千利休の高弟である古田織部に茶の湯を学んだ茶人でもあった。大坂城内の彼の屋敷内には趣向を凝らした数寄屋(茶室)があった様だが、冬の陣の講和後に城の堀を埋める際に無残にも破壊されてしまったとされている。尚、その頃の茶会の記録によると、公卿・僧侶などが開く茶会に治長は度々招かれていたと記され、東本願寺の法主・教如から茶会に招かれた際の治長の自筆の礼状なども残っており、当時の知識人たちとの彼の交流を知ることが可能である。
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