《戦国の終焉、大坂の陣の武将たち -13》 大野兄弟、大野治長と治房・治胤 〈25JKI28〉

大野治房(おおの はるふさ)は治長の次弟で、兄と共に豊臣秀吉、次いで秀頼に仕えた。通称は主馬。慶長16年(1611年)の時点での禄高は1千3百石(『慶長十六年禁裏御普請帳』、『烈祖成績』)、慶長19年(1614年)においては5千石(『大坂御陣山口休庵咄』)であったとされる。

慶長19年(1614年)からの大坂の陣では主戦派の中心人物の一人。彼は兄の治長も手を焼くほどの徹底抗戦派で、冬の陣の和議に納得がいかずに治長を闇討ちしようとするも失敗している。冬の陣では、紀伊国・大和国などに大軍を率いて出陣した(「郡山城の戦い」や「樫井の戦い」など)が、いずれも徳川方に敗れて撤退している。

大坂落城時には、秀頼の遺児である国松を擁して城からの脱出を試みたが、京都で徳川方に捕らわれて斬首にされたと伝わるが、『土屋知貞私記』によれば享年は34歳もしくは35歳とされる。だが、徳川方の捜索を逃れて落ち延びたとも云われ、慶安2年(1649年)には生存説が流れた為に徳川幕府によって再度、捜索が行われたとされ、この様な生存説もある為にその最後はいまひとつハッキリしない。

 

大野治胤(おおの はるたね)は、大野定長と大蔵卿局の三男として誕生し、豊臣秀頼に仕えた。兄に治長・治房、弟に大野治純がいる。また道犬斎の号で知られる。慶長19年(1614年)の時点での禄高は3千石(『大坂御陣山口休庵咄』)であった。

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では豊臣家の水軍5千を率いて船倉を守備するが、油断から野田・福島の戦いで徳川水軍に大敗を喫した。その結果、日頃の傲慢な態度とは裏腹に、あっけなく自軍の水軍を壊滅させてしまったことで味方の武将からも、「橙武者(見かけだおしで役立だず、という意味)」と嘲られた。

治胤も治房に劣らずかなりの激情型で直情径行タイプの人物であり、大坂夏の陣において堺の町を焼き討ちにして、陣後、大坂城を脱出して京都近くで捕らえられた。焼け出された堺衆は治胤の捕縛を知って京都所司代に願い出て彼を引き取り、その身柄は復讐に燃える堺衆によって市中で引き回しの後に火刑にされてしまった。

尚、その際の焼き討ちの理由は、堺はかつて豊臣秀吉に優遇・保護されて発展したにもかかわらず、大阪の陣においては堺衆の商人達ちが豊臣家・徳川家双方を両天秤にかけて取引をしており、しかもより徳川方に便宜を図って、事実上の兵站基地と化していたことに対する制裁だったとされる。

『葉隠』では名は道賢とされ、火あぶりにされ全身焼かれて炭になったはずの道賢(治胤)が、いきなり起き上がり周囲の徳川方武士に脇差で斬りかかり一太刀浴びせた後、そのまま灰となって崩れ落ちた、という逸話が残っている。尚、治胤の墓は堺市堺区の月蔵寺にある。

 

大野治純(おおの はるずみ)は、大野定長と大蔵卿局の四男で兄に治長・治房・治胤がいる。官途名は壱岐守で通称は市兵衛。幼少期に徳川家への人質となり、以降は徳川家康の家臣として知行2千石(3千石とも)を与えられて旗本となる(『武功雑記』、『駿府記』、『慶長見聞録』など)。〈 尚、本シリーズでは原則として徳川方の武将は取り上げないこととしているが、治純に関しては例外的に列記した。何卒、ご了解願い度い。〉

『武功雑記』には「大野修理弟ヲ市兵衛ト云東照宮メシツカハレ少々御寵愛ナリ 任官シテ壱岐守ト云三千石被下」と記されているので、家康からの信任は篤かった様だ。

大坂冬の陣では、徳川方の使者として兄の治長と織田有楽斎に講和を斡旋したと伝わる(『当代記』)。また大蔵卿局が駿府へ下った際、治純の屋敷に滞在したとされる。

大坂夏の陣開戦の前日に家康の命を受けて大坂城を訪れて、闇討ちを受けて負傷していた兄の治長を見舞っている(『駿府記』)。その直前に家康から「真田信繁・長宗我部盛親らは当家(徳川家)に内通している」という偽書を見せられた治純がその事を兄・治長に伝えた結果、豊臣方将士の士気を高めるために予定されていた大将・秀頼の出馬が、淀殿の意向もあり急遽取り止めとなったという説がある。

尚、治純は大坂の陣以降には、松平忠明が治める摂津国大坂藩士となったとも伝わるが、詳細に関しては不明である。

 

「歴史」とは勝者が創り綴るものであることから、大阪の陣での敗者の代表格である大野兄弟に関して後世の史書・史料での扱いが正しい史実であるとは考え難いが、それにしても特に治長に関する記録は随分と歪められている様に思える。

徳川家の行動の正当性を際立たせる為には、豊臣家の中に誰から見ても分かり易い「悪役」を配置することが必要だった。その結果、後世では淀殿(茶々)と共に、豊臣家を滅亡へと導いた「大悪人」の様なイメージが定着する。

だが実際の治長は主家に忠実であり、また誠実であろうとして、秀頼や淀殿、そして生母の大蔵卿局たちの期待に十二分に応えていたのだった。それが、あくまで豊臣家首脳陣のエゴイズムを充足させる目的だったとしても・・・。

-終-

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