この -後編- では、ガダルカナル島争奪戦の終盤から、レイテ沖海戦で没するまでの『鳥海』の戦歴を辿る。
筆者には、僚艦である多くの重巡たちを喪失し、『高雄』型の姉妹艦も次々に失われていく中で、彼女には(まるで)「最後の最後まで諦めない心」が宿っていた様に思えるのだが、読者諸兄は如何御感じだろうか・・・。
尚、本稿では極力『鳥海』に関しての記述を中心に扱い、戦史では重要な事項でも『鳥海』に直接関連しない事柄は割愛している事を、ご了解願う。
昭和17年(1942年)の8月半ば頃には、米軍はガダルカナル島のヘンダーソン飛行場・基地に対して航空機用燃料や爆弾等の弾薬、そして基地航空隊員などを続々と送り込み、同月20日(21日説もあり)には護衛空母『ロング・アイランド』から急降下爆撃機(SBD-3 ドーントレス)12機、戦闘機(F4F ワイルドキャット)19機が同飛行場に飛来した。(22日には米陸軍戦闘機のP-400 エアラコブラも進出)
こうして着々と軍備を整える連合軍に対し、当初の日本軍はガダルカナル島の米兵を2,000名程度と過小評価しており、またガダルカナル島の米軍を本格的に攻撃しようにも、陸軍第十七軍の主力部隊はニューギニア作戦に投入予定なので転用できず、次善策としてミッドウェー島攻略作戦のため編制されていた第7師団隷下の一木清直大佐率いる陸兵2,500名(歩兵第28連隊基幹、「一木支隊」)を投入することにした。
更にこの頃、第八艦隊を始めとする日本海軍は、東部ニューギニア攻略作戦(この直後に発生する「ラビの戦い」など)に多数の輸送船と艦艇(第十八戦隊等)を投入しており、この時点(「第一次ソロモン海戦」直後)でのガダルカナル島方面への追加作戦に関する優先順位は決して高くなく、またこの戦域では戦力の分散投入が行われていた。
こうして日本軍のガダルカナル島奪還は、8月17日にトラック泊地を出発した第4駆逐隊司令の有賀幸作大佐が指揮する『嵐』、『萩風』、『浦風』、『谷風』、『浜風』、『陽炎』の駆逐艦6隻が、第一次増援部隊/一木支隊の内、約900名を同島へ輸送し、翌18日に揚陸に成功したが、一木清直大佐を含めた同部隊は20から21日にかけてのイル川渡河戦で米第1海兵連隊第2大隊他と交戦して全滅する。
尚、この時、『萩風』は米軍機の空襲により損傷、『嵐』に伴われトラックへ後退、また第17駆逐隊の駆逐艦『浦風』、『谷風』、『浜風』は前述の東部ニューギニア攻略作戦/「ラビの戦い」の戦力としてラバウルへ移動した。その結果、ガダルカナル島付近の海域に残留したのは駆逐艦『陽炎』のみとなり、単艦で偵察や対地砲撃を実施した。
同月19日には、第二次増援部隊(一木支隊第二梯団)の輸送船3隻『ぼすとん丸』、『大福丸』、『金龍丸』(陸兵1,300名が乗船)がガ島へ向い、その護衛は第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将、旗艦は軽巡『神通』)が担当した。
また同日、第二水雷戦隊の指示で駆逐艦『江風』(艦長、若林一雄中佐)はガダルカナル島周辺海域へと移動、燃料不足の『陽炎』とガ島周辺の警戒任務を交代したが、8月22日未明、合同予定の駆逐艦『夕凪』の遅れで、『江風』は単艦にてルンガ泊地へと突入し米海軍の駆逐艦『ブルー』、『ヘルム』、『ヘンリー』の3隻と交戦、三対一の劣勢にもかかわらず雷撃で『ブルー』を撃沈(23日曳航中に自沈処分)するという殊勲をあげる。(『ヘルム』は不在との史料もあり)
その頃、これらの作戦支援の為に『鳥海』は、駆逐艦『磯風』を率いてラバウルを出港する。21日、『鳥海』と駆逐艦『磯風』は第六戦隊(『青葉』、『古鷹』、『衣笠』)と一時合流し、その後の23日の夕刻には、『鳥海』と『衣笠』、『磯風』はショートランド泊地に到着する。
燃料補給後に『鳥海』並びに『衣笠』は駆逐艦『夕凪』を率いて出港し、『磯風』は飛行場砲撃のために残置された。
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