ジャワ・スマトラ、インドネシア方面の攻略完了後、第1南遣艦隊は臨時部隊(『鳥海』並びに第七戦隊の各艦、及び第三水雷戦隊、第四航空戦隊など)を編成し、ベンガル湾で独自の作戦を行う方針を打ち出した。
また南雲忠一中将率いる空母機動部隊/第一航空艦隊のインド洋進出に合わせて、山本連合艦隊司令長官や第二艦隊司令長官の近藤信竹中将の許可をとり、第1南遣艦隊(馬来部隊)の行動を南雲機動部隊の作戦に呼応させることにした。
馬来部隊は5分割され、中央隊(小沢中将直率:『鳥海』、『由良』、軽空母『龍驤』、『夕霧』、『朝霧』)、北方隊(第七戦隊司令官の栗田健男少将指揮:『熊野』、『鈴谷』、『白雲』)、南方隊(『三隈』艦長の崎山釈夫大佐指揮:『三隈』、『最上』、『天霧』)、補給隊(『綾波』艦長の作間英邇中佐指揮:『綾波』、『汐風』、『日栄丸』)、警戒隊(三水戦司令官の橋本信太郎少将指揮:『川内』、第11駆逐隊)という編制になる。
この馬来部隊の目的は、インド洋からベンガル湾、そしてカルカッタに至る通商路を攻撃する事で、ビルマ方面の連合軍を牽制し、アンダマン諸島への反攻企図を阻止することにあったとされる。
4月1日、『鳥海』を含む中央隊はミャンマーのメルギーから出港、通商破壊作戦(C作戦)を決行し、商船・輸送船の破壊や地上施設を襲撃(油槽2ヵ所爆破、倉庫2棟爆破)した。
馬来部隊は4月9日までこの作戦を継続し、最終的に艦船23隻を撃沈した。この内、4月6日は航行中の商船を次々と攻撃して21隻(北方隊:8隻、中央隊:8隻、南方隊:5隻)合計137,000トンを撃沈、その他8隻(約47,000トン)大破という大戦果を挙げている。これにより、インド東部沿岸の通商路は一時完全に遮断されることになった。尚、『鳥海』は4月6日に米船『Bienville』と英船の『Ganges』を仕留めている。
こうして、日本軍は戦争当初の目標をすべて攻略。4月10日附の「連合艦隊第二段階作戦第一期兵力部署発動」により、それまで南遣艦隊(この時点では第一南遣艦隊)に編入されていた部隊や艦艇は新たな部隊や任地に転じることになった。そして4月12日には、第一南遣艦隊の旗艦は『鳥海』から軽巡『香椎』に移った。
その後、『鳥海』や『由良』、『龍驤』、そして第七戦隊や第三水雷戦隊の各艦は各々内地へ帰投した。『鳥海』は4月22日に横須賀に帰港し、5月には機銃の追加を行った上で、同月29日から6月14日まであの運命のミッドウェー海戦に攻略部隊直衛として参加することになる。
尚、6月1日時点で第四戦隊は、第1小隊は『愛宕』と『鳥海』、第2小隊が『高雄』と『摩耶』という編制だったが、第2小隊は空母の『龍驤』や『隼鷹』と共にアリューシャン方面作戦に同道しており、ミッドウェー作戦には参加していない。
具体的に『鳥海』が参加したのはミッドウェー島攻略部隊主隊(指揮官は第二艦隊司令長官の近藤信竹中将で、旗艦は『愛宕』)である。第四戦隊からは『愛宕』と『鳥海』、第五戦隊からは重巡『妙高』と同じく『羽黒』、戦艦は第三戦隊の『金剛』と『比叡』が加わった。そして第四水雷戦隊(旗艦は軽巡『由良』 第2駆逐隊(駆逐艦『村雨』、『五月雨』、『春雨』、『夕立』)、第9駆逐隊(駆逐艦『朝雲』、『夏雲』、『峯雲』)、空母『瑞鳳』、駆逐艦『三日月』に加え油槽船が4隻(『健洋丸』、『玄洋丸』、『佐多』、『鶴見』)という戦力であった。
しかしこのミッドウェー海戦では、ミッドウェー島攻略部隊主隊には米艦隊と直接交戦する機会は訪れなかった。また第一航空艦隊の喪失した4隻の空母(『赤城』、『加賀』、『蒼龍』、『飛龍』)を除くと、空襲を受けた支援部隊(第七戦隊)の重巡『三隈』が撃沈され、同部隊の駆逐艦『荒潮』が大破。『三隈』と衝突事故を起こした『最上』が中破となったが、それ以外の攻略部隊各艦が米海軍と本格的に交戦する事はなかったのである。
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