7月14日、連合艦隊の再編成で第八艦隊(司令長官は三川軍一中将、軍隊区分上は外南洋部隊)が新設された。ちなみに三川司令長官は第4代(1934年11月15日~1935年11月15日)の『鳥海』艦長を務めた。
『鳥海』はこの第八艦隊の単独旗艦となりラバウルに進出することとなったが、第八艦隊の当面の主任務はニューギニア島ポートモレスビー攻略を目指すポートモレスビー作戦の支援およびニューギニア東端ミルン湾のラビ攻略(「ラビの戦い」)とされた。
7月20日、旗艦『鳥海』は駆逐艦『朝雲』、『夏雲』に護衛されて内地を出発したが、護衛艦は途中で第16駆逐隊第1小隊の駆逐艦『雪風』、『時津風』と交代した。
7月30日、3隻はニューブリテン島・ラバウルへ到着。第16駆逐隊は重巡『最上』や工作艦『明石』も内地回航の護衛の為にトラック泊地へと戻っていった。
8月7日、ウォッチタワー作戦の一環として米軍がガダルカナル島と対岸のツラギ島などのフロリダ諸島に来襲・上陸、ここに日米両軍のガダルカナル島を巡る一連の激闘が始まった。
同日、ツラギの日本軍守備隊よりの至急の救援要請を受けた第八艦隊/外南洋部隊司令部は直ちに反撃計画を企図・立案する。(ツラギ方面所在部隊からは、同日04時12分に「敵機動部隊来襲、救援求ム」の報があり、06時10分の「最後ノ一兵マデ守ル」という電信を最後に連絡は途絶えた・・・)
そしてその日の内に、ラバウル港では司令長官、三川軍一中将が『鳥海』に将旗を掲げ、旗艦『鳥海』に加えて第十八戦隊の軽巡『天龍』、第四艦隊・第二海上護衛隊所属の軽巡『夕張』と駆逐艦『夕凪』の合計4隻を率いてガダルカナル島へ向け出撃した。
当初、この反撃計画に難色を示していた連合艦隊司令部ではあったが、山本五十六司令長官の決断により(連合艦隊の命令ではないことを互いに確認した上で)出撃を承認する。
その頃、アドミラルティ諸島付近を行動中の第六戦隊(五藤存知少将指揮)の重巡4隻(『青葉』、『加古』、『衣笠』、『古鷹』)はツラギからの緊急電によりラバウル方面に向かって南下を開始していた。尚、五藤司令官は第7代(1937年7月12日~1938年11月15日)の『鳥海』艦長であった。
またラバウル停泊中の『天龍』、『夕張』、『夕凪』の作戦参加は、第十八戦隊(松山光治少将指揮、『天龍』や『龍田』が所属)や各艦のごり押し談判によるものと伝えられており、その熱意に押されて(三川)突入艦隊への参加が許可されることになった。ちなみにこの時、軽巡『龍田』や駆逐艦『夕月』、同じく『卯月』はブナへ移動中で、この突入作戦に参加しなかった。
こうして旗艦『鳥海』、『天龍』、『夕張』、『夕凪』の4隻はラバウルを14時30分に出港、湾外で第六戦隊の重巡4隻と合流し、高速でガダルカナル島を目指して航行を開始。その直後(14時50分頃)、米潜水艦の『S38』がこの(三川)突入艦隊を発見して報告したが、連合軍側はこの情報を重要視しなかったとされる。
ところで、この(三川)突入艦隊の8隻は一度も合同訓練を行ったこともなく、「回転整合」(艦船が船団航行を行う場合、各艦船のスクリュー回転数を調整して速力を統一する作業)の測定すら実施していない、まさしく「烏合の衆」であった。また『天龍』、『夕張』、『夕凪』の3艦は急遽参加が決まったため、隊内連絡に使う無線電話の設定が間に合わず、その後の作戦中、三川司令長官から直接の指示を受けられずに苦労したという。
更に『夕張』に至っては、機関部の故障(スクリュー三軸のうち一軸が故障していたとされる)により最大速力を発揮できない状態であり、また航行不能になった際に乗組員を陸戦隊とするため、軽機関銃や小銃を積みこんでいたとも云う。この『夕張』の最高速度が30ノットしか出せないことが、高速34ノット以上でツラギへ突入する予定だった(三川)突入艦隊の攻撃計画が修正を余儀なくされた原因のひとつであり、またこの寄せ集め状態により、第八艦隊司令部の作戦指導は限定的なものとなった。
つまり複雑な艦隊行動は不可能だったから、全艦は旗艦先頭に単縦陣で航行して目標地点に突入し、一航過での攻撃を実行する。そして夜明けまでには敵空母群の攻撃圏外への離脱に成功している、という作戦が組み立てられたのだ。
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