【国鉄昭和五大事故 -3】 洞爺丸事故 (後編) 〈1031JKI51〉

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『洞爺丸』(1951年以前の撮影とされる写真をもとにした絵葉書から)

連作【国鉄昭和五大事故 】シリーズの洞爺丸事故(後編)をお届けする。

同事故に関する連載最終回である今回は、『洞爺丸』以外で事故に見舞われた青函連絡船についての状況や「洞爺丸事故」関係者のその後の消息と、そしてその他の事故後に判明した多くの逸話を記るしたい・・・。

また最後に、この悲惨な事故の結果、根本的な安全交通路確保の手段として、急ピッチで推し進められた「青函トンネル計画」について簡単に触れて幕を閉じたいと思う・・・。

 

『洞爺丸』以外の事故

この台風事故では、『洞爺丸』の沈没のみがフォーカスされた感が強いが、実際には『洞爺丸』以外にも4隻の青函連絡船(『北見丸』・『日高丸』・『十勝丸』・『第十一青函丸』)が沈没している。

「洞爺丸台風」の襲来当時、函館港外で錨泊などの対応をとった船舶は全部で9隻で、その中で無傷であった船はわずか2隻のみで、残りの内2隻が座礁しており、上記の通り『洞爺丸』を含めて5隻が沈没してしまった。しかし幸いなことに、港内に在泊した8隻の船舶は、沈没等の大きな被害は免れた。

『洞爺丸』以外の函館港外で台風を避けようと錨泊した連絡船6隻、すなわち『大雪丸』・『北見丸』・『日高丸』・『十勝丸』・『第十一青函丸』・『第十二青函丸』においても『洞爺丸』と同様の被害が発生、からくも『大雪丸』や『第十二青函丸』は重大な危機から逃れたものの、他の4隻は相次いで転覆し沈没することになる。

また事故当時、これらの船舶が函館港外での錨泊を選択した理由には、台風の強い波浪を避ける為に港内がたくさんの船で大いに混雑していたこともあったが、いま一つの大きな理由としては、当時、港内ブイに係船されていたイタリア船籍の貨物船『エルネスト号』(7,341トン)の存在があったとされる。

この時、函館港内に所在していた船舶の中では最大級だった『エルネスト号』は、メキシコから石炭を輸送中に室蘭で座礁事故を起こして船底を破損した後に函館港に回航されて以降、無人状態で係留されており、当日の16時30分頃には港内で走錨事故を起こしていた。『エルネスト号』が再び走錨した場合に備え、各船の船長たちはこの大型の無人船と狭い港内で接触・衝突する危険を回避したいと考えて、港外へと退避したというのだ。

尚、『洞爺丸』の僚船でこの未曾有の災害から生き延びた『大雪丸』(『洞爺丸』の姉妹船)は、『洞爺丸』と同じように函館湾内で一旦投錨し仮泊する形をとったが、強風に流されて漂流する他船との接触を回避する為に、再び抜錨して湾外へと脱出したところ、この行動がかえって幸いして沈没という最悪の結果から逃れたとされる。

また外国船では沈没とはならなかったが、米軍の戦車揚陸艦 LST546号も座礁することで難を逃れたとされている。

この様に函館港外で沈没した5隻は、『洞爺丸』を筆頭に全てが青函連絡船であった。その事故原因の詳細は既に(中編)で述べたので省略するが、防水力の極めて弱い車両積載用扉から開口部がある車輌甲板に海水が浸入し滞留したことで、機関室やボイラー室等への浸水を防げないという連絡船の構造上の問題が大災害を招いたのである。また遭難した5隻は皆、鉄道車輌を積載していたことと、逆に遭難を免れた船舶が空船だったことは既述であるが、この点は後に重要な事故の原因とされたのだった。

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