さてそれでは以下に、沈没した『洞爺丸』以外の連絡船の概略を紹介する。
・『北見丸』(車両渡船 /2,928トン)・・・・・15時30分には防波堤外の西防波堤灯台西方2.2kmにて錨泊したが、20時13分以降は通信途絶。22時30分頃、主機械停止。同35分、葛登支灯台沖(南口灯台の西方海上)2.9kmにて転覆し沈没した。乗組員70名(未発見遺体29体)が殉職し、救助された生存者はわずかに6名である。
・『日高丸』(車両渡船 /2,932トン)・・・・・21時58分には港口を通過し港外へ。23時32分(34分とも)、SOSを打電し、23時43分頃に防波堤灯台西方1.5kmにて転覆・沈没した。船長以下56名が殉職(救助者は20名)。この時の最後の電文は、「SOS de JQLY(=日高丸) 函館防波堤灯台よりW9ケーブルの位置にて遭……(以下途絶)」 であった。ちなみにこの船は浮揚後、修復して再就航し、昭和44年(1969年)9月まで運航された。
・『十勝丸』(車両渡船/2,912トン)・・・・・18時50分に函館港防波堤外に投錨仮泊。22時20分、両舷主機が停止する。23時43分、葛登支灯台の西方の海上で右舷へ横転の後に沈没。船長以下59名が殉職(救助者は17名)した。尚、『十勝丸』は昭和30年(1955年)9月20日に引き揚げられて、修復の後に再就航し、昭和45年(1970年)3月に勇退している。
・『第十一青函丸』(客載車両渡船/旅客設備改装後3142トン)・・・・・113時20分、204便として進駐軍車両を満載して函館港を一度出航したものの、悪天候により穴潤沖から引き返して来た。函館港で乗客全員176名を洞爺丸に移乗させ、更に米軍用の寝台車1両、荷物車1両を一旦陸揚げし、その代わりに木材等を載せた貨車5両を積み込んで合計45両の満載状態で港外へと退避、16時25分には防波堤外に錨泊した。19時57分、「停電に付き、後で交信を受ける」との通信を最後に連絡が途絶、その後、強い波浪の衝撃で船体が一気に3つに破断して沈没したとされる。沈没場所は、函館灯台の西南の海上だが、沈没時間は乗組員全員(90名)が死亡した為に不明である。但し、後に発見された遺体(未発見遺体は44体)の所持していた時計によると、推定20時頃とされている。また洞爺丸台風で唯一生存者がいない悲劇の船でもある。
尚、旧客(旧型客車の略称で、国鉄の10系以前に製作された客車の便宜的な呼称)好きの鉄道ファンには広く知られているが、『第十一青函丸』から『洞爺丸』に積み替えられた一等寝台緩急車(二重屋根車)のマイネフ38-5(37234)は、沈没した同船に積載されていた他の客貨車と運命を共にして海没したのだった。翌1955年7月の等級制変更によりマロネフ38は49に変更されたものの、マロネフ49-5は現車が存在せずに書類上だけの幻の車号となっていた。だが引き揚げられた『洞爺丸』の保全命令が解かれたことで、ようやくにして同年10月に正式に廃車手続きが取られたのである。但し、更新修繕(外板の張替えが施工されて鋼体を溶接で組み直したことからウィンドウ・シル/ヘッダーなど車体表面のリベットが見えなくなった)が行われていたかは不明である。
さて不幸中の幸いにも、この台風事故で沈没したいずれの船にも一般の乗船客はおらず、その被害者は各船の乗組員であったが、大変多くの方々(合計275名)が犠牲となったのだ。
またこの5隻の他にも『大雪丸』のように沈没こそしなかったものの航行不能に陥った連絡船もあり、青函連絡船は第二次世界大戦の終戦前後に近い壊滅的な打撃を受け、まさに航路開闢(かいびゃく)以来の最大の惨事となった。
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