【国鉄昭和五大事故 -3】 洞爺丸事故 (後編) 〈1031JKI51〉

明暗分かれた『洞爺丸』と『羊蹄丸』

事故の当日〈昭和29年(1954年)9月26日〉、青森埠頭でも佐藤昌亮船長が指揮を執る青函連絡船『羊蹄丸』が乗客を満載して出航を待っていた・・・。

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初代『羊蹄丸』(1951年以前の撮影とされる写真をもとにした絵葉書から)

『洞爺丸』の同型姉妹船であった『羊蹄丸』は、この日、10便として12時55分に青森第2岸壁に到着し、折り返し16時30分発の9便として函館に向け出港予定であった。だが『洞爺丸』とは異なり、『羊蹄丸』は青森からの出航を見送ることなる。

青森では15時30分頃から、一旦、強風も収まり、一部には晴間も覗く天候で、まさしく台風の眼の中といった気象状況となったが、船長の佐藤昌亮は定刻(16時30分)の出港ではこの眼の反対側の暴風圏に遭遇する危険な航海が予想されるとして、当面は「天候険悪出港見合わせる」と決断した。

その後、18時が過ぎても天候はそれ程悪化しておらず、この様子から出港を要望する乗船客たちからの強い要請(「なぜ船を出さぬのか!?」・「まったく優柔不断で日和見も甚だしい!!」といった、ほとんど罵声にも近いものであったとされる)に耐え抜いて『羊蹄丸』は青森に留まったのだが、後にはこの『羊蹄丸』船長の極めて慎重な判断が、同船の遭難を未然に防いだと大いに評価された。

こうして『洞爺丸』と『羊蹄丸』、二人の船長の判断は分かれたが、万難を排して出港したベテランの近藤船長の『洞爺丸』乗客乗員1,172名が被った惨劇に比して、石橋を叩いても渡らない決意で出航を見合わせた佐藤船長(近藤船長よりも8年程後輩であった)の『羊蹄丸』乗員乗客1,300名は九死に一生を得たのである。
またその後、佐藤船長は周囲の人々から掌を返した様に、まるで神様扱いをされてひたすら苦笑するだけであったという。そして彼は、事故後間もなく宇高航路へと転じ、国鉄を定年退職した後は海難審判の補佐人(刑事裁判の弁護人にあたる)を務めた。
ちなみに昭和22年(1947年)12月12日にも、波浪高く風も強くて連絡船が全船運航を見合わせていた中で、『石狩丸』が進駐軍函館RTO(Railway Transportation Office、鉄道輸送事務所)の強硬な出航命令に従い、危険な天候状態の中を青森を出航したが、途中で猛吹雪で視界も効かず針路保持も出来ない状況となり、一旦転進して三厩湾への避難を決意したが、強風の為にそれもままならず結局は青森へと引き返した。しかし視界不良で陸岸への接近が困難であり、再度転針の後に三厩錨地で仮泊を決断し錨泊が出来た。こうして翌日には無事、青森第1岸壁に帰着したのだが、この時、関連した進駐軍将兵の多くが同船の船長並びに各乗組員の行動を称賛、これ以降は函館RTOも航行に関して連絡船各船長の判断を尊重するようになったとされる。

 

引き揚げられた各船のその後

洞爺丸401 Toya-maru_1955
浮揚され、港へ曳航された洞爺丸(朝日新聞社『アサヒグラフ』 1955年6月1日号より)

『洞爺丸』の船体は後日引き揚げられたが、作業の遅れも災いして上部構造の損傷が著しく、現場検証の後にスクラップ(下記)とされた。

『第十一青函丸』は、1955年に東洋海事工業(株)により浮揚工事が行われたが、残存船体は『洞爺丸』と併せて売却にかけられて、東京の松庫商店が6,310万円で落札して吉岡海事工業所において『洞爺丸』と共に解体処分にされた。

また『北見丸』は昭和31年(1956年)8月に主船体の引き揚げが完了、しかし船体損傷ひどく修復工事は断念されて、1960年には宮坂商店に売却されて解体となった。

更に前述の通り、『日高丸』と『十勝丸』は引き揚げ後に車両甲板より上部の船体部分を改めて製作して、1956年より航路に復帰した。以降、『日高丸』は1969年まで、『十勝丸』は最後の蒸気タービン船として1970年に至るまで使用された。

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