【国鉄昭和五大事故 -3】 洞爺丸事故 (後編) 〈1031JKI51〉

・また有名な話としては、3人の外国人宣教師の美談が伝わっている。ディーン・リーパー(Dean Leeper)氏は、YMCAに所属した宣教師で米国人であった。たまたま『洞爺丸』に乗り合わせた2名の外国人、即ちメソジスト派の宣教師でカナダ出身のアルフレッド・ラッセル・ストーン(Alfred Russell Stone)氏とドナルド・オース(Donald Orth)氏と力を併せて、海難事故に遭遇した『洞爺丸』の船上にて人道的な活動を行ったとされる。

具体的には、リーパー氏は危機に際して狼狽える乗船客に優しく話しかけたり、子供たちに自慢の手品を見せては落ち着かせた。またストーン氏は、救命具を持たない学生を見つけると、「あなたの前途は長いから」と言って自分の救命具を譲ったとされている。そしてリーパー氏は子供連れの母親に救命具を与えて、神に祈りを捧げて最後まで励まし続けたとされている。

オース氏はこの事故を奇跡的に生き延びたが、リーパー氏とストーン氏は亡くなった。彼らのとった行動は生き残ったオース氏の証言や他の生存者の目撃談に加えて、ストーン氏に救命具を譲ってもらい生還出来た若者の親族やリーパー氏に救命具を着せてもらって助かった子供やその母親が、事故後(遭難の翌日)に新聞社へ当時の状況を伝えたことで真相が報道され、日本経済新聞は「北海に散った神の使徒/外人宣教師」の見出しで彼らの行動を報じた。

そして、特に亡くなった2人に関しては宣教師という聖職に殉じた形となり、まさしくその使命を立派に果たしたと云えよう。尚、ストーン氏にはその人道的行為を賞して、勲五等双光旭日章が追贈されている。

・激しい風雨や情報の錯綜で救助活動が遅れたことで、七重浜に打ち上げられた時点ではせっかく生存していたにもかかわらず、その場で精根尽き果てて死亡した遭難者が多数いたとも伝わる。

・「娘一家が乗船していて遭難」との連絡を受けた父親がショックのあまり亡くなったところへ、娘の夫から「誰も乗船しておらず無事」との電報が届いたという悲劇もあった。

・『洞爺丸』には船内郵便局があり、また郵便物が多数運ばれていたが、この事故により北海道から本州に向けての郵便物が多数失われたり損壊してしまった。しかし回収された郵便物の中で宛名ないし送り主が判明した物については、事故により遅延した旨を付した上で宛先へと配達、もしくは送り主へと返送された。その中にはクラッシュカバーとして現在も大切に保存されている物もあるが、ちなみにクラッシュカバーとは郵便事故に遭遇した郵便物を指し、一部の切手収集家や歴史愛好家の中にはこの様なクラッシュカバーが大変珍重されており、特に悲劇的で且つ重大な事故に遭遇した物ほど珍重されると云う。

・この事故の救難活動・遺体捜索に際して、明らかに自殺をほのめかす遺書を持った遺体が発見され、自殺なのか事故で死亡したのかが調査・検討されたが、最終的には事故で死亡したと判断された。

・あまりにも多くの犠牲者が発生したことで、函館周辺の既存の火葬場のみでは荼毘に付すことが能わず七重浜に仮設の火葬場が設けられた。

・溺死死体が中心の遺体の身元照会は困難を極め、またその混乱に乗じて、遺族になりすまてし補償金等を詐取しようとする詐欺事件まで起きたとされる。

・『洞爺丸』に隣接する形で『第六真盛丸』(2,209トン、大阪の原商船所属)が座礁したが、暴風によるアンテナ線切断により自船のSOSの送信も『洞爺丸』のSOSも受信できず、『洞爺丸』の沈没を知ったのは救助に成功した該船の二等機関士と乗船客からの報告によってであった。その後、暴風の最中にアンテナ線の張り替えに成功し、00時18分に『石狩丸』を経由して救難本部に事故を通報した。尚、『第六真盛丸』では都合20名を救助している。

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