【国鉄昭和五大事故 -3】 洞爺丸事故 (後編) 〈1031JKI51〉

・『石狩丸』、『大雪丸』、そして『第十二青函丸』は最悪の危機(沈没)から逃れたとは云え、皆、自力航海は不可能な状態に陥り、ドックへ入渠して修理を行ってから航行が可能となるまでには多くの日数を要したとされる。

・この時、『洞爺丸』や『大雪丸』・『羊蹄丸』などと同型姉妹船の『摩周丸』は、浦賀船渠で定期検査を実施していたことから洞爺丸台風には遭遇せずに済み、事故から1ヵ月後には検査を終えて青函航路に復帰した。

・『洞爺丸』の近藤船長は、当日は本来の『洞爺丸』船長が休暇を取得した為、交代で乗務していたとされる。

・当時の国鉄総裁の長崎惣之助氏は「洞爺丸事故」では責任追及を免れたが、後(翌年)に発生した「紫雲丸事故」では引責辞任している。彼が職を失った原因の事故が、同じく大規模な海難事故であったことは単なる偶然の一致だろうか・・・。

・国鉄職員(主に連絡船乗組員)の殉職者の遺体捜索は後廻しにされて、特に乗船客の無かった沈没船4隻(既述)に調査の潜水夫が入ったのは事故後10日を経過してからのことであった。

・殉職した乗組員については空襲による戦没船員と共に、函館山麓の「青函連絡船海難者殉難碑」に合祀されている。

・そして、この稀代の大海難事故に対し各国から多くの弔電が寄せられた。

 

洞爺丸事故を受けて整備が進んだ青函トンネル計画

青函トンネルとは、本州の青森県東津軽郡今別町浜名と北海道(渡島総合振興局)上磯郡知内町湯の里を結ぶ鉄道トンネルである。全長は約53.9kmで、交通機関用のトンネルとしては日本で最長である。また平成28年(2016年)3月26日からは、三線軌条を北海道新幹線が走行している。

この海底下の長距離トンネルは、我国最悪の海難事故である「洞爺丸事故」を契機に計画が具体化、建設に向けての準備が加速した。当時、海上航路の安全が脅かされる自然災害が相次いで発生しており、船舶での列車輸送に代わる手段として安全な交通路を確保することを目的に、長期間の工期と巨額の工費を費やして建設されたのだった。

その後、数々の難工事を経て昭和63年(1988年)3月13日の朝には海峡線 中小国~木古内間の運用が始まり、青函トンネルの営業運転が開始されたのだった。また同日夕刻、最後の青函連絡船が互いに函館と青森から出港、青函航路の鉄道連絡船は明治41年(19年)3月の開業以来80年にわたる歴史に幕を閉じたのだった。

青函トンネルには海上航路とは違った意味で、例えばトンネル内での列車火災などの事故に備えて、内部には厳重な安全・災害対策が施されており、トンネル内は終日禁煙・火気使用厳禁となっている。またその為に高感度の煙・熱感知器が多数設置されている上に、消火設備や換気・排煙の設備はもとより、避難誘導設備も万全のものが設けられている。更に、旧海底駅の竜飛と吉岡の両定点ではそれぞれ竜飛・吉岡斜坑を通じて地上へと脱出出来る構造になっており、これらの斜坑にはケーブルカーの他、1,317段の階段が設置されている。

このトンネルの開通で、天候に左右されない安心・安全な輸送が可能となったが、その代償として全工程においての殉職者は34名にものぼり、龍飛崎には彼ら殉職者の慰霊碑(「青函トンネル工事殉職者慰霊碑」)が建っていることを忘れてはならない・・・。

 

次回の【国鉄昭和五大事故 】シリーズでは、「鶴見事故」を取り上げる予定であるので、是非とも、ご期待頂きたい!!

-終-

【国鉄昭和五大事故 -1】 桜木町事故・・・はこちらから

【国鉄昭和五大事故 -2】 三河島事故・・・はこちらから

【国鉄昭和五大事故 -3】 洞爺丸事故 (前編)・・・はこちらから

【国鉄昭和五大事故 -3】 洞爺丸事故 (中編)・・・はこちらから

【国鉄昭和五大事故 -4】 鶴見事故・・・はこちらから

【国鉄昭和五大事故 -5】 紫雲丸事故・・・はこちらから

関連記事はこちらから ⇒ 【国鉄三大怪事件 -1】下山事件の謎 第1回

 

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