【歴史雑学】 国家としての「日本」はいつ頃成立したのだろうか? また、なぜ「日本」と呼ばれだしたのか? 〈2408JKI54〉

〈「倭の五王」の朝貢〉
「邪馬台国」や「倭」に関する記録が、中国の史書に次に現れるのは凡そ150年の後の義熙9年(413年)の倭王・讃の朝貢(「倭の五王」のひとり)に関してであり、上記の空白の150年間の影響で、女王・壱与が統治した「邪馬台国」と後の「ヤマト王権」との関係性は諸説あって明確とはなっていない。但しこの点については、近年では両者の関連についての有力な学説があり、それについては後述したい。

さて、5世紀初めから約1世紀の間にわたって、上記の讃を始めとする倭王である讃・珍・済・興・武の5人が相継いで中国の南朝(当時中国は南北に王朝が並立していた時期で、これは「隋」が中国を再び統一する589年まで続いた)に臣下を派遣し朝貢したことが中国側の記録に残っていて、この「倭の五王」はそれにより南朝方の中国皇帝から官爵を授けられて当時の中華冊封体制に組み込まれている。

尚、「倭の五王」については、『記紀』(『古事記』と『日本書紀』を併せた総称)などによる天皇の系譜と照らし合わせて、讃を履中天皇、珍を反正天皇、済を允恭天皇、興を安康天皇、そして武が雄略天皇であるとする説がある。但しこの「倭の五王」の存在とその正体については、現在の我国の歴史学会では正式には認められても突き止められてもいない。

その理由には、この「倭の五王」の中国王朝への遣使の記録が、我が方の『古事記』にも『日本書紀』にも存在しないことや、同時期の我国の連合国家「ヤマト王権」の大王(おおきみ)の中には「倭の五王」の名の様な、讃、珍、済、興、武などという一字名の中国風の呼称が記録に無い為に、この「倭の五王」は「ヤマト王権」の大王とは異なる別の王ではないか? とする説が、古くは江戸時代以前からあるからだ・・・。

だがこの内、済王、興王、武王については専門の研究者の間でもほぼ該当する天皇との同一性を認める向きもあり、その反面、讃王と珍王については『宋書』と『記紀』との間に伝承の食い違いが存在する為に依然としてその正体は未確定である。

こうして義熙9年(413年)まで中国の史書から「倭国」に関する記述は見えないのだが、ちなみにその間を埋める記録としては、『広開土王碑』(高句麗の第19代の王である好太王〈広開土王とも〉の業績を称えた石碑)がある。

この碑には、391年に「倭」が「百済」・「新羅」を侵略したので、「高句麗」の第19代王である好太王と戦争となったとある。更に399年、「倭」は「百済」と同盟を結んで再び「新羅」へと侵入した。そこで好太王は「新羅」を救援する為に「倭」に通じた「百済」を討ち、400年と404年の2度にわたって「倭」の軍勢と交戦して勝利したと刻まれている。

400年、5万の大軍を擁して新羅を救援、新羅の王都金城を占領していた倭軍が退却したので、これを追撃して任那・加羅に撤退させたと云う。404年には、「倭」の軍勢が帯方郡方面に進攻して来たので、これを迎え撃って倭軍を大敗させたと記されている。

また『三国史記』(朝鮮半島における三国時代「新羅」・「高句麗」・「百済」から統一「新羅」王朝の末期までを対象とする紀伝体の歴史書で、朝鮮半島に現存する最古の歴史書である)の“新羅紀”でも、「実聖王元年(402年)に〈倭国〉と通好す。奈勿王子未斯欣を質となす」として「新羅」が「倭」へ人質を送っていた記録等も存在しており、その当時の「新羅」の王、実聖尼師今(じっせいにしきん)が、402年3月に一時的に「倭国」と和議を結んだことは明白であるが、この後、405年や407年・408年にも倭軍の侵攻を受けており、415年8月には倭軍と風島という戦場で戦って「倭」の軍勢を退けたとされており、一連の記録によりこの頃の朝鮮半島南部への「倭国」の頻繁な軍事介入が裏付けられている。

この様に、当時の「倭国」の朝鮮半島における軍事活動は、我国側の史書である『記紀』や『風土記』、『万葉集』など、また朝鮮側の上述の『三国史記』や『三国遺事』、そして中国側の史書である『宋書』などにおいても比較的多数が記録されており、更に『職貢図』の“新羅題記”にも「新羅」が「或屬倭(或る時は「倭」に属していた)」という記述があって、歴史的にも明確に証明されている。

但し、ここでの「倭」・「倭国」の実態をどう理解するかは難しい問題であり、当時の「倭国」側の具体的な状況にこそ不明点が多いのが現実であり、そこには多くの異論が存在する。

〈「ヤマト王権」の誕生と「大和」という呼称〉
さて既に、「邪馬台国」と後の「ヤマト王権」との関係性には諸説があって明確ではないと述べたが、一方、今日では古墳の成立時期は3世紀末に遡るとの見解が浸透しており、卑弥呼を宗主とする小国連合(「邪馬台国」を中心とする連合国=「倭国」)が後の「ヤマト王権」の基盤にそのまま繋がる可能性が高くなったとの指摘もあるのだ。

つまり「ヤマト王権」の成立時期は、研究者によって3世紀中頃~末期と多少の幅はあるが、何れにしても畿内地方だけではなく、より幅広い地域の豪族を含めた連合政権、即ち卑弥呼率いる連合王国が後に発展したものであったとも考えられ、またこの王権の拡大は前方後円墳の出現とその伝播に沿った形で版図を広げていったとする見解が有力となっている。(但し、当然ながら異説も多い)

現在では、3世紀中頃から6世紀にかけての時代区分を古墳時代と呼称するのが専門の日本史研究者および高等歴史教育の世界では一般的となっていて、同じ頃に生まれた「ヤマト王権」こそが、この古墳時代に大王(おおきみ)などと呼ばれた「倭国」の王を中心とした連合政権として日本列島の大部分を支配した政治権力であるとの考えが有力になってきたのだ。

そしてその古墳時代の後期とより後の飛鳥時代(6世紀末~8世紀初め)も含めた、天皇を中心とした我国の中央集権体制のことを「大和朝廷」と表現することがあるが、これに関連しては「大和」という表現が使用され出す時期との兼ね合い等を根拠に多くの異論がある。(また天皇家と「ヤマト王権」の直接的な関連を否定する説や、その関係性が未だ証明されていないとの意見も多数ある)

即ち「大和」(読みはヤマト)という表記を巡っては、7世紀以前の金石文・木簡等の文献史料などや8世紀の前半に成立した『古事記』(712年成立)や『日本書紀』(720年成立)では、漢字による「大和」の表示は未だ見られない。(但し、『日本書紀』には当然乍ら「日本」という表現が現れている)

大宝元年(701年)の大宝律令施行により、国名(郡・里(後の郷)名も)は漢字二文字で表記することになって始めは「大倭」となり、奈良時代(710年~)に入った橘諸兄政権の開始後間もなくの天平9年(737年)12月27日(738年1月21日)に恭仁京遷都に先立って「大養徳」となったが、翌年に恭仁京が廃棄されて藤原仲麻呂が政権を掌握した天平19年(747年)3月16日(747年4月29日)には「大倭」へと戻り、そして仲麻呂の提案で天平宝字元年(757年)5月に養老令が施行された後から「大和」へと変化し、その後の奈良時代を通じて、また平安時代以降は「大和」で一般化したのだった。

ただし藤原京出土の木簡に「□妻倭国所布評大□里」(所布評とは添評を指す)とあるように、和銅3年(710年)の平城京遷都までは「倭国」と記述されていた様子も窺える。

後に我国を示す言葉として使用される「ヤマト(やまと)」は、元々は「倭」・「大倭」等と表記して「ヤマト王権」の本拠地である奈良盆地の東縁と南部一帯を示す地名であった(これを「狭義のヤマト」とする)が、やがて「広義のヤマト」として、上記のように「大倭」・「大養徳」から「大和(ヤマト)」と呼名が変遷する中で、現在のほぼ奈良県全域を対象とする律令国(令制国とも、律令制に基づいて設けられた我国の地方行政区分のこと)を指すようになり、その後、「ヤマト王権」が西方の河内方面までを支配するようになると、その地域(後の近畿・畿内)もまた「大和」と呼ばれる様になった。

以降、既述の様に「ヤマト王権」の拡張に伴って同王権の影響・支配が日本列島の多くの地域(東北地方南西部から九州全域)に及ぶに至り、その地域を総称して「大和」と呼ぶ様になり、こうして「大和(ヤマト)」が我国全体を指す呼称となっていくのだった。

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