前編では、ようやくにして開発が完了して前線へと送り出されるまでの『紫電改』の軌跡を追いかけたが、この後編では太平洋戦争の最終局面における『紫電改』の戦歴を振り返り、その評価を改めて確認したいと思う。
また評価の項では、『紫電改』のみならず当時の同世代の各国戦闘機について、『紫電改』との比較の範囲内で触れてみたい。
さて戦争末期の過酷な戦況において、如何にして『紫電改』は日本海軍を代表する局地戦闘機として活躍し、そして終戦を迎えたのだろうか・・・。
紫電改の戦い
昭和19年(1944年)12月10日、速水経康大尉(横須賀海軍航空隊所属、後に343空の戦闘407飛行隊分隊長)が搭乗する『紫電改』が、『紫電』6機(前編で既出の笠井智一上飛曹ら)と共に、『F13』(B29の写真偵察型)の迎撃に出動したが、これが『紫電改』の初陣とされる。
また翌昭和20年(1945年)2月17日、硫黄島攻略戦の前哨戦として米軍艦載機が関東地区に進攻。指宿正信少佐(横須賀航空隊の隊長)率いる塚本祐造大尉(先任分隊長)や岩下邦雄大尉(前編にて既出)、羽切松雄少尉、そして武藤金義飛曹長(前編で既出、著名な撃墜王)が操縦する『紫電改』と、海軍航空技術廠(空技廠)から派遣された山本重久大尉(前編で既出)、増山上飛曹、並びに平林一飛曹が搭乗する試作の『紫電改』が、『零戦』48機、『雷電』、『紫電』11機と共に迎撃に飛び立った。
この時の米軍部隊を撃退した戦いで、武藤の4機撃墜(21機の『F6Fグラマン』をただ1機で相手をした結果とされる)を筆頭に岩下(主脚の不具合で片足を出したまま空戦に突入)、羽切、山本、増久、平林が各1機撃破という戦果をあげ、『紫電改』は全機が生還した。しかし同じ戦闘で『零戦』は11機、『紫電』は1機が失われている。
こうして量産が開始された『紫電改』は、時期は少々遡るが、制式採用前の昭和19年12月において源田実大佐の制空権奪還構想に基づいて愛媛・松山基地を本拠地として編成(12月25日開隊)された第343海軍航空隊(以下、343空)、通称“剣”部隊に優先配備が開始されていた。またこの隊には『紫電改』だけではなく、人員・機材その他も優先的に配属・補充され、日本海軍最後の切札的迎撃戦闘機隊として大いに期待された。
ところで読者諸氏には今更ながらではあろうが、ここで343空のキーマンである源田大佐(戦後は自衛隊の初代航空総隊司令や第3代航空幕僚長となり、政治家としては参議院議員を4期24年にわたり務めた)の略歴を紹介すると、彼は海兵52期、昭和3年(1928年)12月に霞ヶ浦海軍航空隊に入隊して第19期飛行学生を拝命して以来、航空畑一筋に歩み、テストパイロットを務めたこともある。太平洋戦争の開戦に際しては、第一航空艦隊の航空参謀として真珠湾攻撃計画を立案して成功の立役者となるが、ミッドウェー海戦で敗北を喫して軍令部に異動。以降、幾つもの反攻航空作戦を企図するが実施が困難な状況が続いた。やがて更なる戦況の悪化に伴い、空母機動部隊の壊滅や陸上機部隊の弱体化に直面して、戦局の挽回の為には制空権が必要であることを改めて認識、その獲得を目指して自ら司令として最強の制空戦闘機隊を編成し指揮することとなった(現地への着任は昭和20年1月19日)。
この343空の編成は、戦闘機隊には『紫電』と『紫電改』からなる戦闘301飛行隊(「新選組」、元252空所属)・戦闘407飛行隊(「天誅組」、元203空)・戦闘701飛行隊(「維新隊」、元341空)・戦闘401飛行隊(「極天隊」、元341空)があり、また珍しく直属の偵察部隊として『彩雲』(C6N)を有した偵察第4飛行隊(「奇兵隊」、元141空)を持っていた。戦闘402飛行隊(飛行隊長 藤田怡与蔵大尉)も一旦は343空に編入されたが、昭和20年3月には601空へ移り、徳島基地へと移動した。
戦闘401飛行隊は練成隊(訓練部隊)であったが、残りの3個飛行隊は定数各48機で、そこには経験不足な若年搭乗員も多かったが、源田司令が自ら選抜した当時海軍部内で名の知れたベテラン搭乗員も多数在籍していた。発足時の各戦闘飛行隊長は、戦闘301飛行隊が菅野直大尉(既出)、戦闘407飛行隊が林喜重大尉で戦闘701飛行隊の隊長は鴛淵孝大尉(343空 先任飛行隊長、既出)であり、各々が極めて優秀と評価された戦闘機隊長であったが、惜しくも3人とも終戦までに戦死を遂げている。また、彼らの激闘の軌跡は、別稿で詳しく取り上げたいと考えている。
フィリピンで壊滅的な打撃を受けて再建中の戦闘401飛行隊の隊長には浅川正明大尉、そして定数24機で活動する偵察第4飛行隊は橋本敏男大尉が率いていたが、橋本の偵4飛行隊は343空に異動してくる寸前までフィリピンで激戦の真っ只中にあり、最後に343空に合流を果たした部隊となった。橋本は戦争を生き抜き戦後は自衛隊に勤務、退官後は会社役員となった。更に源田司令が力を入れた通信隊の隊長には黒葛原伉大尉が着任した。
343空幹部の副長には中島正中佐(後に相生高秀中佐と交替、特攻論者とされた中島が周囲から嫌われたからとの説が有力)が就任し、飛行長にはかつて『紫電改』の主席テスト・パイロットであった志賀淑雄少佐(前編で既出)が着任した。
ちなみに偵察飛行隊の装備機、艦上偵察機『彩雲』は太平洋戦争中に唯一偵察専用の艦上機として計画され、長距離かつ高速の偵察活動に従事する目的で開発されたが、現実には空母で運用されたことは無く、専ら陸上機として使用された。
『紫電改』と同じ“誉”発動機を採用しているので同様に頻発するエンジントラブルに泣かされたが、その高速性能に関しては、追撃してきた『F6F』を振り切った時に発信した「我ニ追イツクグラマン無シ」の電文が有名だ。しかしこの機の乗員は、基地に帰投した後に「余計な通信は行うな!」と上官に叱られたらしい(笑)。またこの電文を発した偵察機の機長は、偵察飛行の達人とされる千早猛彦少佐(後に戦死、最終階級は二階級特進で大佐)であるとの説もあるが、確かではない。この通信文自体が『彩雲』の速度性能を自慢する“都市伝説”のようなものであったのだろう。
戦後、米軍が計測した『彩雲』の最高速度の694.5km/hは、全備重量状態ではなかったが、第二次世界大戦中に日本海軍が実用化した航空機の中でも最高クラスの速度記録であったとされる(異説あり)。
尚、343空の戦法の特徴は、それまでの戦闘機隊とは異なるチームワークを活かした集団戦闘を重視しており、2機編隊や4機の区隊、8機の飛行分隊などがまとまって連携しながら米軍機と戦ったと云う。更に無線電話の実用化や指揮通信網の整備に大いに注力した結果、大戦期の日本軍としては稀な無線を活用して大きな戦果を上げた部隊となる。
さて、1945年3月19日、343空は初陣で米軍艦載機約160機に対し『紫電改』56機と『紫電』7機で迎撃、米軍機58機(57機とも)の撃墜を報告した。我が方の損害は自爆・未帰還15機(『彩雲』1機含む)、地上炎上又は大破が5機であった。日米双方に戦果誤認はあったが、343空の勝利・大戦果となった。(但し現在では、この時の報告戦果は大幅に水増しであるとされており、米軍側は14機喪失、343空は報告通り15機が失われたとの説が有力)
こうして激戦を生き残った精鋭搭乗員を結集した343空は、『零戦』を上回る性能を有した『紫電改』とそれを操る“腕っこき”の戦闘機乗りたちの獅子奮迅の働きにより、対戦した本土空襲任務の米軍機動部隊の艦載機パイロットの多くに衝撃を与え、恐怖を抱かせたのだった。
その後の彼らの活躍は目覚ましく、数々の米軍傑作機と互角以上に戦って輝かしい戦歴を刻むが、やがて搭乗員の消耗と機材の補給途絶の為に次第に戦果は乏しくなっていった。
しかし、我国の海軍戦闘機隊の歴史に有終の美を飾ったのは間違いなくこの部隊であり、343空は4月初頭には鹿児島県の鹿屋基地に進出、更に国分基地へと転戦して、最後は大村基地で終戦を迎えることになる。
だが、本稿が予想外に長尺となった為に、この343空の活躍の詳細に関しては別稿(『仮題:日独決戦戦闘機部隊、“343空”と“JV44”』)で取り上げる予定としたので、本稿でのこれ以上の言及は割愛したいと思う。
また『紫電改』が効果的に戦えた理由の一つには、少ない生産量を343空や横須賀海軍航空隊(以下、横空)などに集中的に配備し運用したことが戦果に繋がったとの見方が強い。
尚、343空を含め、昭和20年(1945年)も初夏となる頃以降は海軍の戦闘機部隊は「決号作戦」(日本本土防衛作戦)に備えて極力兵力を温存する様に命じられていたので、米軍航空戦力への組織的な反撃は一部の飛行隊で散発的にしか実行されなくなるのだった・・・。