ところで駆逐隊は通常、4隻(定数が時期により3隻の場合もあるが、戦時に所属艦の喪失・修理等により減数となることは多い)の駆逐艦で構成され、内 1隻が駆逐隊司令(大佐)を乗せた司令駆逐艦となる。また原則として、同型艦同士で駆逐隊は編成されていた。
※海軍の各部隊は、原則として同型艦・姉妹艦で編成される。これは同じ要目・性能を持った艦艇を組合せる方が運用・管理(マネージメント全般)が楽であり、作戦行動時においても統制を執り易いとされる。速度や航続距離、搭載兵器の種類やその精度などを始めとして、乗組員の練度、舵の効き方といった些細な面でも、同型艦である方が有利であった。
また日本海軍は、全国を4つの地域(鎮守府)に分けて管轄・運営していた。神奈川県の横須賀、広島県の呉、長崎県の佐世保、そして京都府の舞鶴である。各駆逐隊は、各々がこの鎮守府の何れかに所属しており、隊番号が1桁の場合は横須賀鎮守府に所属、10番台は呉、20番台の駆逐隊は佐世保、30番台の隊の駆逐艦乗組員は舞鶴鎮守府管区の水兵が多数含まれていた。(因みに、北海道は横須賀管区、四国は佐世保管区である)そしてこの為、第六駆逐隊は横須賀鎮守府所属の六番目の駆逐隊、ということになるのだ。
※日本海軍の「艦船令」等では、駆逐艦や潜水艦は「軍艦」の類別には入らない。軍艦には戦艦・巡洋艦と各種母艦や敷設艦が当てはまり、当初、軍艦とされていた砲艦や海防艦は後(太平洋戦争後半)に軍艦からは外された。また、艦首の「菊花紋章」は軍艦にのみ付されていた。
※日本海軍では、「軍艦」ではない駆逐艦の艦長は正式には「駆逐艦長」と呼ばれた。駆逐艦長の階級は、中佐もしくは少佐である。そして大佐である駆逐隊司令が、(巡洋艦以上の大艦である)軍艦の艦長と同格の扱いとされていた。即ち、駆逐艦4隻を併せた駆逐隊の戦力・人員数などの価値が、巡洋艦 1隻と同等と考えられていたとも言える。(確かに、駆逐艦4隻で乗員合計は700~800名、重巡も800名くらいであり、ほぼ同じである)
※司令駆逐艦は「旗艦」とは呼ばれないことに注意が必要。駆逐隊司令は佐官であり、将官である「提督」(少将以上の高級将校、陸軍では「将軍」と呼ばれるが、日本軍には少将と大佐の間の准将という階級は存在しない)ではないので、司令の乗る艦でも「将旗」は掲げないから。但し、将官/提督が乗艦して指揮を執る時は、当然ながら旗艦となる。例えば、水雷戦隊が巡洋艦ではなく駆逐艦を旗艦とした場合や、上級の司令部が乗艦を喪失して移乗して来た場合などは、この限りではない。
さて、太平洋戦争中の第六駆逐隊は、『暁』型駆逐艦4隻で編成された横須賀鎮守府所属の駆逐隊である。第一艦隊 第一水雷戦隊に所属し、主として南太平洋方面の激戦に参加した。
尚、前述の様に第六駆逐隊の本来の所属は横須賀鎮守府であり、史実では結成当初は駆逐艦『雷』・『電』の2隻であり、間もなく『響』が加わり3隻となった。
昭和7年(1932年)8月15日、『雷』就役(浦賀船渠)、同年11月15日に『電』が竣工(大阪・藤永田造船所)し、この2隻で第六駆逐隊を編成する。そして同じ年の11月30日、『暁』が就役(佐世保海軍工廠)し、第十駆逐隊(『漣』・『狭霧』)へ配属される。
昭和8年(1933年)3月31日には『響』が就工(舞鶴海軍工廠)、第六駆逐隊へ配属され、昭和8年(1933年)11月15日には同隊は第二艦隊 第二水雷戦隊(旗艦は軽巡『鬼怒』)に編入となる。
この時点での六駆は、『暁』を除く『響』・『雷』・『電』の3隻で編成されていたことになるが、同隊は同年4月1日に解隊した『樺』型駆逐艦4隻からなる先代(三代目)六駆に続く四代目の第六駆逐隊である。因みに前述の様に、同時期、『暁』は『漣』・『狭霧』と共に第十駆逐隊を編成していた。
※『暁』型は『吹雪』型駆逐艦の中で、『暁』、『響』、『雷』、『電』の4隻を指す。
※この当時はロンドン軍縮条約の影響で、特型駆逐艦による駆逐隊は3隻で編成されていた。
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