昭和9年(1934年)6月29日、『電』が演習中に駆逐艦『深雪』(『吹雪』型/I型の4番艦)と衝突し、『深雪』は沈没。翌昭和10年(1935年)11月、「第四艦隊事件」を受けて、六駆の各艦とも性能改善工事(『暁』型も艦橋付近などはぐんとコンパクトとなる)を実施した。昭和11年(1936年)12月1日に第六駆逐隊の各艦、横須賀鎮守府予備艦となる。
昭和12年(1937年)7月7日、支那事変が勃発し、同月28日には第六駆逐隊は第二艦隊 第四水雷戦隊(旗艦『木曾』)に転籍する。尚、この時の四水戦の他の駆逐隊は、十駆が『暁』・『漣』・『狭霧』、十一駆に『吹雪』・『白雪』・『初雪』という布陣。以後、四水戦は10月20日に支那方面艦隊 第四艦隊に転籍となった。
更に、同年12月1日には四水戦は支那方面艦隊 第三艦隊に異動となるが、翌昭和13年(1938年)4月19日に四水戦は一旦、解散となった。こうして六駆所属の各艦は再び横須賀鎮守府の予備艦となる。因みに、第十駆逐隊は同年11月5日、杭州湾上陸作戦に参加している。
昭和14年(1939年)11月15日 第二艦隊 第四水雷戦隊が再編され、六駆には解隊した第十駆逐隊より『暁』が編入され、ここに『暁』型の全4隻による、御馴染みの第六駆逐隊が誕生することになった。
翌年の昭和15年(1940年)11月15日、六駆は第一艦隊 第一水雷戦隊(司令官は大森仙太郎少将、旗艦は軽巡『阿武隈』)に転籍となる。
翌昭和16年(1941年)12月8日、太平洋戦争が開戦。第六駆逐隊は南方攻略へ出撃。12月11日にはカムラン湾に入港し周辺の哨戒に従事、12月20日、フィリピン攻略作戦にてリンガエン湾上陸作戦を支援。
※ゲーム「艦これ」では、実装の各艦とも太平洋戦争の開戦時での所属がゲームでの所属部隊に反映されているので、第六駆逐隊は第一水雷戦隊(一水戦)の所属ということになっている。
昭和17年(1942年)1月11日、セレベス島メナド攻略戦を支援。以後、ジャワ作戦での船団護衛やバタビア沖海戦などに参加。1月20日、ダバオ沖で『電』が輸送船『仙台丸』と衝突し、『電』は翌21日、工作艦『明石』に横付けして応急修理を行い、29日には馬公に回航することになる。
六駆は2月27日~3月1日にはスラバヤ沖海戦に参加。海戦後、『雷』と『電』が日本軍に撃沈された英重巡洋艦『エクセター』及び駆逐艦『エンカウンター』の乗組員を救助したことは有名。特に『雷』の工藤俊作艦長(中佐)の英断による、雷撃を受ける危険を冒しての敵兵救助活動と捕虜の英兵に対する厚遇は、戦後において英米などの連合国側からも大いに称賛された。
※3月1日に英重巡『エクセター』の乗組員376名を『電』が救助、翌3月2日には『雷』が英駆逐艦『エンカウンター』等の乗組員422名を救助している。
昭和17年(1942年)5月20日、第六駆逐隊は北方(アリューシャン列島)攻略部隊へ配属される。同年6月6日にはミッドウェー海戦が発生し日本軍は惨敗、自慢の空母機動部隊は瓦解。
同年6月12日、北方方面のキスカ島攻略作戦で『響』は5機のB-24の爆撃を受け、艦首を損傷し大破、『暁』の護衛・曳航により大湊へ帰投して11月まで長期修理を行うことになる。
※『暁』型の四姉妹が第六駆逐隊に揃っていたのは、1939年11月に『暁』が第十駆逐隊から編入されてから、1942年11月の「第三次ソロモン海戦」で『暁』が轟沈する迄の3年間である。しかしより厳密には、キスカ島占領作戦時の損傷が原因で『響』が入渠(にゅうきょ)した為に、4隻が同駆逐隊に皆揃っていたのは『響』が修理に入る1942年6月までと考えられる。『響』欠員の補充としては、1942年7月30日に『吹雪』型(Ⅰ型)の7番艦『薄雲』が第五艦隊より臨時に編入されたが、1ヶ月程度で第六駆逐隊からは外れている(第二十一駆逐隊へ異動)。
※史実で第六駆逐隊を指揮した巡洋艦は『阿武隈』のみであるが、『木曾』も『暁』型 4隻を何らかの形で指揮下に置いたこと(第六駆逐隊、第十駆逐隊並びに第十一駆逐隊)がある。また、『龍田』を旗艦に『響』・『雷』・『電』を配したのが、1943年4月に編成された(練成部隊の)第十一水雷戦隊であるが、既にこの時期は『天龍』と『暁』は喪失していた。
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