1944年4〜5月にかけて『雷』・『電』が相次いで沈むと第六駆逐隊は同年の6月25日に解隊となり、唯一生き残った『響』は連合艦隊附属となった。
また歴代の第六駆逐隊司令は・・・
・成田茂一大佐 1940/11/1~1942/4/5
・山田勇助大佐 1942/4/6~1942/11/13(「第三次ソロモン海戦」にて『暁』と共に戦没)
・高橋亀四郎大佐 1942/12/28~1944/2/14
・戸村清大佐 1944/2/15~1944/6/25(第六駆逐隊の解隊により解任)
である。
その後の『響』については・・・
昭和19年(1944年)9月6日、『響』は台湾の高雄市からマニラへの船団護衛任務に従事。その際に米潜水艦の雷撃を受け損傷、応急修理が行わて基隆に回航されたが、天候不順により艦内で乗組員に赤痢患者が発生、それにより本土に戻ることになり佐世保へ回航された。そして損傷修理に時間を要した為に「レイテ沖海戦」には不参加となる。
昭和20年(1945年)1月25日には、『響』は第二艦隊 第二水雷戦隊所属の第七駆逐隊に転出。この時、第七駆逐隊も中破状態の『潮』只一艦となっていたが、結局は『潮』が損傷の為に横須賀港から動けない為、『響』の単独行動となる。
3月29日、『響』は周防灘で触雷し損傷し『朝霜』に護衛されて呉へ回航される。これにより「菊水作戦」(戦艦『大和』と第二水雷戦隊による沖縄水上特攻)には参加出来なかった。
4月20日には二水戦が解隊、第七駆逐隊も同じく解隊となる。その後の『響』は、修理終了後の5月に舞鶴を経て6月には新潟へと移動。
7月10日に『響』は、第一海上護衛艦隊 第百五戦隊に編入され、日本海での船団護衛に従事する。この際に舞鶴で『氷川丸』に燃料の補給を受けたことがある。そして同月20日には、B-29の撃墜を記録する。
8月15日、07時頃に新潟にB-29が飛来、『響』は対空戦闘を実施(日本海軍最後の発砲)した。そして正午には玉音放送が行われて終戦を迎える。
※日本海軍の最後の発砲は、『潮』から移設した連装砲を装備した『響』が米軍 B-29に放った一撃とも言われている。
・駆逐艦『響』の最終搭載兵器
50口径12.7cm連装砲 2基4門、61cm 3連装魚雷発射管(九三式魚雷発射可能) 3基9門
25mm 3連装機銃4基(2基とも)、同連装機銃 1基、同単装機銃 14挺(17挺とも)
三式投射機 1基 (爆雷 36個)
尚、電波探信儀(でんぱたんしんぎ)は前檣を改造して二十二号 1基、後檣に十三号を1基装備。また、この時点での公試排水量は2,300トン、速力は34ノットであった。
※当時、日本陸軍ではレーダーを「電波探知機(略称は「電探」)」と呼んでいた。しかし日本海軍においては、広義のレーダーのことは「電波探信儀(電探)」と称しており、「電波探知機(逆探)」とは、敵のレーダーが発した電波を傍受して方向を探る一種の逆方向探知機のことであった。
こうして『響』だけは、『吹雪』型/「特」型の栄光を守るかの様に、終戦まで可動状態で生き残り、有終の美を飾ったのだった。
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