さて、泰親は上皇に玉藻前の正体を奏上しましたが、彼女を溺愛する上皇はまったくこの言葉を信じません。それどころかその病は更に重くなっていきました。そこで泰親は、上皇の病を治す為と称して「泰山府君(たいざんふくん)祭」を執り行い、玉藻前の正体を炙り出すことにしました。尚、この「泰山府君祭」とは、本来は天皇などの健康長寿を祈祷する祭祀で、陰陽道の最高奥義の一つです。
早速、実際にこの祭儀を実施したところ、たちまち同席していた玉藻前の形相が変わり、雷を起し、黒雲を呼んでは風に乗って、“九尾の狐”となって辰巳の方角へと飛び去ったのでした。尚、藤原忠通説では、玉藻前によって罠に嵌められて貶められた泰成により、その正体を暴かれた玉藻前は、金の帯となって大空に飛び立って逃げ去ったと云います。
この時、泰親(もしくは泰成)が逃げる“九尾の狐”に四色の幣(ぬさ )を投げつけると、途中で赤・黒・白の三色の幣は地に落ち、青色の幣だけが妖狐の後を追って行きやがて見えなくなったので、「青色の弊のある処に妖孤がいるに違いない。青色の弊を見つけて都に知らせよ!!」との命を全国に下しました。
そして、この出来事は安保元年(1120年)のことである、との説もありますが、その頃はまだ鳥羽天皇の時代であるので辻褄が合いません。鳥羽天皇が崇徳天皇に譲位して上皇となるのは保安4年(1123年)以降ですから、この事件もそれ以降のハズです。但し、安倍泰親が15歳にして元服して陰陽師となったのが天治元年(1124年)ですから、玉藻前の正体を見破った陰陽師が泰親であったとしても、ましてやそれが子の泰成であれば尚更、鳥羽上皇が崩御される保元元年(1156年)に近い、ずっと後の出来事(例えば1140~1150年)である方が、(どうせ創り話であるとしても)多少とも信憑性が増すというものです。
また後の『殺生石』と『玄翁和尚』の逸話から逆算すると1135年~1140年頃との推定も成り立ちますが、それであれば、やはり安倍泰親が玉藻前の正体を見破った陰陽師であることになるでしょう。
さてどちらにしても、それから17年の後に下野国の豪族・那須八郎宗重(須藤権守貞信/定信とも)から、那須野原に青い弊が落ちていて、最近では何者かに婦女子が攫われるなどの悪行が頻発しているとの報告が朝廷にあったのです。
そして奇怪なことにこの頃から那須宗重の妻がふたり現れ、見分けがつかなくなります。内ひとりは妖狐の化けた姿に違いないのですが、急いで上京した宗重からこの様子を聞いた安部泰親は、「妖狐を見つけ出し宗重の妻を見分ける為にも、古来より朝廷に伝わる御神鏡を用いるが良い」と言い、それを八郎宗重に貸し与えました。
都で報告を終えて帰路の途中、乱心した供の者に御神鏡を奪われかけた宗重は、泰親から与えられた山鳥の尾の符を用いてその正体を暴きます。符をかざしながら刀を抜いて切りつけたところ、妖狐が化けた供の姿は消えてしまいました。その後、那須の館へと戻ると妻は元の通りひとりとなっており、妖狐は持ち帰った宝鏡を恐れたのか、それからは領内では何事も起こることなく平和な日々が続いたのです。
しかし、しばらくしてから件の宝鏡を朝廷に返納すると、また妖狐が現れては田畑を荒らし山野は乱れ、人々は恐怖に慄きました。
その結果、那須宗重からの再度の訴えに朝廷では安房国の武士・三浦介義純(義澄・義明とも)と上総国の武士・上総介広常のふたりを大将に総勢1万5千余人(8万を越える大軍勢とも)をもって、この妖狐の退治に遣わしました(三浦介や上総介以外に千葉介常胤も参加したとする説もあり)。
またこの時、三浦介は普段から信仰している諏訪明神を拝して妖怪征伐の成功を願い、同様に上総介は高良明神に妖狐の退治の成就を祈って就寝したところ、眠りから覚めた三浦介は妖狐退治の弓矢として白木の弓に鷲の羽の征矢二筋を授けられ、同じく上総介には神授の長刀(なぎなた)が枕もとに置れていたと伝わりますが、他説には那須貞信が必ず命中して抜けることのない矢を手に入れて、それをもって妖狐を成敗した、という話もあります…。