《『殺生石』と『玄翁』和尚の逸話》
さてその後、妖狐の屍はそのまま巨石となり、しかもそれに近づいたものは皆、毒気に侵されて倒れてしまいました。報告を受けた泰親はその石を見て、「これは妖狐が毒石になったものじゃ。これから後、誰も近寄らない様に立ち入り禁制の立札を建てよ!!」と領主の那須宗重に申しつけて、自身は京へと帰って行きました。
こうして妖孤の悪念はそのまま凝って石と化し、近くを通る鳥獣がその邪気に当たって死ぬことも多く、この石は『殺生石』と呼ばれて付近の人々は恐れて近づかない様になります。しかもその害は石の付近だけではなく、殺生石の下から出(い)ずる水が流れ下りやがて近くの鍋掛川へと混入、そこの川魚までも死に至らしめていました…。
それから何十年経っても、この石の害は止みませんでした。朝廷においても、それをそのままにしてはおけず、先ずは妖怪変化調伏の専門家ともいえる密教系寺院の高僧で紀伊国紀三井寺の『浄恵』と云う天台宗の僧を那須へと派遣しました。彼はふたりの弟子を連れてはるばる那須の地へと下り、石魂教化の為の祈祷を行いましたが、この石から吹き出た妖狐の毒風にあたり、弟子ともども亡くなってしまいます。
次いで派遣されたのは播磨国書写山(圓教寺)の『了空』坊でしたがこの僧も殺生石の浄化には失敗、その後に遣された筑前国真静寺の『道基』阿闍梨もこの石を済度しようとしてその犠牲となったのです(『絵本三国妖婦伝』など)。
やがて月日は流れて至徳2年(1385年)になり、今度は越後国生まれの『玄翁(もしくは源翁)』和尚(禅師)という名僧が、後深草天皇の命で派遣されることになりました。
そして『絵本三国妖婦伝』では播磨国法華寺から京の御所に呼び出された彼は、帝の勅命を受けるとそのまま関東へと下り、途中の鎌倉では征夷大将軍の宗尊親王(執権は北条時頼)に謁見して那須野にある殺生石の得度に向かう旨の報告をしていますが、この頃は宗尊親王(~1274年)の生きた時代とは100年以上も隔たり、やはり『絵本三国妖婦伝』の設定は出鱈目となっています。更に『玄翁』和尚を遣わしたのも、本来は年代的に1385年当時とすると(北朝であれば)後円融上皇や後小松天皇の御代となります。
とは云え、(史実とフィクションの適合をいくら追い求めても無駄なので)あくまで創作上の物語の解説を続けることとして『絵本三国妖婦伝』での描写を継続すると、この時、『玄翁』和尚は弟子などは伴わずにただ一人で那須へ向かいました。和尚は綿服に麻布の三衣を着て、右手は拂子を持ち、左手は数珠を掴んで、足には草鞋を履くと云った身軽ないでたちで件(くだん)の殺生石に戦いを挑んだのです。
そして、いよいよ和尚が殺生石に近づくと、遂に彼(か)の石の中から玉藻前が姿を現わしました。そこで玄翁和尚はいきなり「煩悩即菩提」と一喝して石めがけて杖(錫丈)を打ち降ろしました。すると、あれほど仇を為してきた恐ろしい石がたちまちにして砕け散りましたが、その夜、ひとりの美しい女が和尚の処を訪れて来て「浄戒を頂いたおかげで、生まれ変わりようやく天へと昇ることができます!!」と礼を言って消え失せました。(石を打ち据えるまでに長時間念仏を唱えたとか、玉藻前が「修羅の輪廻に浮かぶまじき大悪念、暫時に解脱するこの嬉しさよ」 と言い残して煙のごとく成仏した、との話もあり)
また割れて弾け飛んだ殺生石のその後については、『絵本三国妖婦伝』では和尚が破片のひとつを持ち帰り、地蔵像に彫り上げて京都の地で祀ったとあります。その他に関しては、長門国の萩の古郷というところに落ちたものが玉藻大明神となり、美作国の高田に落ちたものは玉藻大権現となったとされていますが、砕かれた殺生石の破片が飛来したとされる地の伝説は、越後国高田(現新潟県上越市)や安芸国高田(現広島県安芸高田市)、そして豊後国高田(現大分県豊後高田市)にもあり(玄翁和尚によって打ち砕かれた欠片が全国3ヶ所の高田と呼ばれる地に飛散したとする話がある)、また四国に飛来したものが『犬神』となり、上野国に飛来したものが『尾裂狐(オサキ)』(『尾先』・『御先狐』等とも)になったとも伝わります。
更に元々、殺生石のあった場所である那須の地の近くにも玉藻稲荷神社と名の付く社(やしろ)が存在しています。それは栃木県大田原市蜂須の(近所に「犬追物」の跡がある)篠原玉藻稲荷神社で、建久4年(1193年)に鎌倉幕府3代の将軍・源実朝が訪れては、玉藻稲荷大明神をこの地に祭ったとされてもいます。
こうして、妖狐が討伐されてから実に240年~250年もかかってやっと殺生石の怨念が浄戒したことになる訳で、そこには大層な“九尾の狐”の邪悪な執念が感じられるのでした。
ちなみに、玄翁和尚が殺生石を砕いたのは錫杖ではなく金槌だったとされ、このことに基づいて石を割る様な、前後の平たい大きな鉄鎚のことを「玄翁/玄能(ゲンノウ)」と呼ぶ様になった、とされるのです。
さて、ここで改めて玄翁和尚(禅師)に関してより詳しく説明すると、名は『玄翁心昭(げんのう しんしょう)』或いは『源翁心昭』、号して『空外』。嘉暦元年(1326年)もしく喜暦4年(1329年)に生まれて応永3年(1396年)または応永7年(1400年)に亡くなったとされる南北朝時代の曹洞宗の高僧です。
出身は越後国萩村とされ幼少の頃から僧としての才能を発揮、16歳(18歳とも)で曹洞宗に帰依し能登の諸嶽山總持寺の峨山韶碩に入門しました。北関東を中心に行脚しながら教化を広め、出羽国の永泉寺を文和年間(1352年~1356年)に再興し、伯耆国においては退休寺を延文2年(1357年)に創建、その後は下野国烏山の泉渓寺を延文5年(1360年)に開き、結城の安穏寺を応安4年(1371年)に、また会津の爾現(示現)寺を永和元年(1375年)に再興しては住持となります。
尚、殺生石の浄化の功により、至徳3年(1386年)には後小松天皇より『能昭禅師』の号と泉渓寺には大寂院の勅額を賜りました。そして泉渓寺は後小松天皇の勅願所となり、勅使門が建立されました。
また玄翁和尚が開山したとされる化生寺(岡山県真庭市勝山)の境内には、殺生石の石塚が現存しており、ここが美作国高田の地にあたります。そして、同じく和尚の開山とされている表郷中寺常在院(福島県白河市)境内にも、殺生石の破片と言われる石が祀られており、併せて和尚の座像と殺生石の縁起を描いた絵巻物『紙本著色源翁和尚行状縁起』が伝えられています。
三浦介や上総介の妖狐退治の推移は源頼朝などの巻狩等を参考とした創作でしょうが、しかし玄翁和尚のエピソードは、史実として1385年の勅命並びに報償としての勅額が現在にまで伝わっていて、伝説と史実が交錯している不思議な話なのです…。