ところで我国にはこれらの逸話とは別に、元来、殺生石に関する“謂われ”があったものと思われます。例えば、松尾芭蕉と門人の曾良が『奥の細道』紀行で那須野を訪れたのは元禄2年(1689年)でしたが、芭蕉は「石の香や 夏草赤く 露暑し」という句碑を残しました。またこの時、曾良が詠んだ「飛ぶものは 雲ばかりなり 石の上」という句(実際は越中の俳人・麻父の作とされる)は、当時の人々が殺生石の放出する毒気(実態は火山性の有毒ガス)の効果が、その周囲に近づく生物に悪影響を及ぼすのことを既によく承知していた事実を示していると考えられるからです。
それはこの石(というよりも岩石の一部)が、火山性の硫化水素、亜硫酸ガスなどの有毒ガスや砒素などの有毒物質を噴出していて、近づく人間や動物などに害を及ぼしたことから、“生き物を殺す石”という意味から転じて『殺生石』という名前が付いたと考えられているのです。
また、この時点ではまだ“九尾の狐”の話は広く流布されておらず、『奥の細道』にもその記述はありません。以前からあった殺生石の生物に与える殺傷効果と“九尾の狐”の伝説を結びつけたのは、江戸中後期の戯作者たちとその文芸作品だったからです。
ところで玉藻前のモデルは、鳥羽上皇に寵愛された皇后の美福門院(藤原得子)とも云われます。この美福門院とは、鳥羽天皇の譲位後(鳥羽上皇)の寵妃で近衛天皇の生母。父は白河院政期には院の近臣として活躍した権中納言・藤原長実(贈太政大臣)、母は左大臣・源俊房の娘である方子でした。そして美福門院は近衛天皇の生母であることから、異例中の異例として上皇の妃ながら皇后となりました。
また彼女はあの手この手の権謀術数を駆使して、自分の子(体仁親王→近衛天皇)や猶子を帝位につけるように画策しては、ライバルの中宮・待賢門院(藤原璋子)を失脚させます。そして、崇徳上皇や藤原忠実・藤原頼長親子と対立しては保元の乱を引き起こし、この一連の流れが公家政治の没落と武家政権樹立のきっかけを作ったとされているからです。つまり鳥羽上皇に寵愛されて皇后となった彼女が権力を濫用して国を亡国へと導いた、と後世の人々は考えたのでしょう。
こうした事跡から『殺生石』伝説の主人公である“白面金毛九尾の狐”『玉藻前』のモデルと云われているのです。
《“九尾の狐”に関するまとめ》
前述の通り、古くは神聖な獣と考えられていた“九尾の狐”ですが、この平安をもたらす神獣が中国・明代に成立した伝奇的小説『封神演義』ではその性格を大きく変えます。現在、私たちが知っている極悪な妖怪“九尾の狐”の話は、この『封神演義』での描写が主なルーツとなっている様です。
我国・日本では、妖狐については平安時代(弘仁年間/810年~824年完成)に編まれた本邦最初の仏教説話集『日本霊異記』あたりから登場し始めますが、この話では人間の女性に化けて人間と結婚した程度のことで、それほどの悪さは働いていませんし、既述の様にその後の『延喜式』ではまだ神獣扱いです。
しかし約450年ほど後の史書・年代記の『神明鏡』(上下2巻、南北朝末期に成立、永享2 年/1430年まで書き継がれた)の鳥羽院の条では、『玉藻前』(“白面金毛九尾の狐”の変化した姿)は実は妖狐であったと記述されており、他にも妖狐の物語は能の演目『殺生石』、室町時代の御伽草子『玉藻の草子』や1444年に成立した室町時代の所謂、国語辞典である『下学集(かがくしゅう)』巻の中・第三帳・犬追物の注釈などに見られます。
また『神明鏡』が著わされた頃、既に玉藻前の前歴として班足王子の夫人並びに周の幽王の后の褒姒の名が挙げられています。但し、室町時代の『玉藻の草紙』などでは、未だ玉藻前は“二尾の狐”とされていましたし、妲己についても“千年狐狸精”との記述はあっても、尾の分かれた狐であるとの描写はないのです。更に華陽夫人および褒姒に関しては、まだ厳密にはハッキリと妖狐と関連した物語とはなっていません。
ところが、江戸時代以降になるとこの玉藻前が“九尾の狐”であるとされる様になるです。特に浄瑠璃の紀海音の『殺生石』、 浪岡橘平・浅田一鳥・安田蛙桂の『玉藻前曦袂(たまものまえあさひのたもと)』(1751年)での描写が有名で、また江戸時代後期の読本作家である高井蘭山が著した既出の『絵本三国妖婦伝』(1804年)では、それまで詳しくは語られてはいなかった中国・天竺(インド)の話が補強されて、殷の妲己らもまた玉藻前と明確に関連付けられました。
この読本が好評を博した事で、文化・文政期には玉藻前の物語が大流行し、松梅枝軒・佐川藤太の浄瑠璃『絵本増補玉藻前曦袂』(1806年)を始めとする多くの作品が創られました。これによってこの伝説は更に広く庶民に浸透し、玉藻前と言えば“九尾の狐”の事を指す代名詞となっていきました。即ち、これら本邦の作品と中国から伝わった『封神演義』の相乗効果で、“九尾の狐”は神獣から妖狐へ、そして極悪な妖怪となったという訳です。
しかし一方、曲亭馬琴は『南総里見八犬伝』において、善狐である“九尾の狐”『政木狐』を登場させていますが、馬琴は玉藻前の伝説に代表される妖怪のイメージは、『封神演義』に影響された比較的近年のものであるとして、本来の“九尾の狐”は瑞獣であるという考え方を強く主張したのでした。
そして、彼の『南総里見八犬伝』での善玉“九尾の狐”である『政木狐』は、千人の人の命を助けたことで“狐竜”に変じて昇天して行きますが、やはり国を亡ぼす毒婦・悪女の代表『玉藻前』のイメージが圧倒的に強烈であり、それを覆すには至りませんでした…。
那須野の殺生石が砕かれてから630余年が過ぎ、“金毛白顔九尾の狐”がまたそろそろ現世に現れる頃合いかも知れませんネ!! しかし最近では妙齢の女性というよりも、妖狐のままの姿がクローズ・アップされていて、ゲームや漫画・アニメのキャラクターとして幅広いコンテンツによく登場していますが…。
さて今度は何処にどんな姿をして現れるのでしょうか? やはり絶世の美女なのでしょうか? それともシン・ゴジラの様な大怪獣としてでしょうか? そしてその姿形に関して興味津々たる筆者が、男なら、やはり“傾城の美女”に一度はお目にかかりたいと願うのは、単なる不届き者ということになるのでしょうか…(笑)。
-終-
※『NARUTO -ナルト-』では“九尾の狐”のことを“クラマ”と名付けていますが、これは冨樫義博さん原作の漫画及びそれを原作としたアニメ・映画『幽☆遊☆白書』に登場する作中人物の妖狐『蔵馬』の影響でしょうか…。
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