さて、耳鳥斎の生まれ育った大阪という町は、江戸や京都と比べると伝統的な文化・教養や学問・芸術を重んじる守旧派的な態度(所謂、アカデミズム)はかなり低く、逆に権威に対抗して生まれた商人の町ならではの自由闊達な気風が、狩野派などの職業絵師たち(レガシー)とは一味違う独創的な画家を輩出しました。
ある意味、(与謝蕪村や岡田米山人以上に)とりわけ生粋の浪速っ子であった耳鳥斎は、この上方的町人趣味とでも云うべき独自文化の方向性を戯画で表現した、謂わば「笑いの奇才」なのです。まさしく彼は、「世界ハ是レ即チ一ツノ大戯場」(『絵本かつらかさね』より)と語り、堅苦しい世間を喝破し笑い飛ばしているのです。
※与謝蕪村は享保元年(1716年)頃に生まれ、天明3年12月25日(1784年1月17日)に亡くなった江戸時代中期の俳人で画家です。松尾芭蕉や小林一茶と並び称される江戸俳諧の巨匠の一人で江戸俳諧中興の祖とされており、また俳画の創始者でもあります。
※岡田米山人(おかだべいさんじん)は、延享元年(1744年)に生まれ、文政3年8月9日(1820年9月15日)に死亡したとされる、江戸時代後期の大坂を代表する文人画家でした。
その彼の画風は、速筆でありながら対象に関して当意即妙の姿を描き出し、また独特の「おかしみ(洒脱で諧謔味あふれる趣向・機知に富む)」を合わせ持っています。更にそこには、当時の市井の人々の風俗や生活感が活き活きと感じられ、いかに単純化された画面ではあっても、私たち現代人からも愛される要素が既に満載なのでした。
略筆体で描いた胴体や手足の描写が独特(時には異様)で、特にその目はデフォルメされた大きな黒点か一文字に簡略化されたものもあり、鼻や口の描写もまるで現代のギャグ漫画の主人公の様です。まぁ、本来は時系列から言って現代の漫画家が、耳鳥斎の画法を模倣したとするべきなんでしょうが・・・。
彼の代表作には、肉筆画の『仮名手本忠臣蔵』や『別世界巻』(寛政5年/1793年)・『地獄図巻』(寛政5年3月/1793年3月)、そして版本『絵本水や空』(安永9年/1780年)・『画話耳鳥斎』(天明7年/1787年)、『軽筆鳥羽車』(寛政5年/1793年)や『歳時滅法戒』(享和3年/1803年)、また『絵本古鳥図加比(えほんことりのつかい)』(文化2年/1805年)等々があります。また耳鳥斎は、『鳥羽絵手本』では「浪花津に梅がへならで耳鳥斎、降る金銀に扇に取る」と歌われ、扇面画を多く描いたとされますが、現存数は5点ほどしか確認されていません。
※『絵本水や空』は三都の芝居名優似顔絵集3巻3冊で、大阪の奇人・変人16人を取り上げその奇行ぶりを戯画化した『画話耳鳥斎』は4巻4冊。更に、上方・京阪の年中行事を描いた淡彩摺り26図が収録されている『絵本かつらかさね』(享和3年/1803年)も代表作とされ、何れの作品も独特の画法で異彩を放っています.
耳鳥斎の役者絵の画風は、同時代に活躍した流光斎如圭やその門人たち(松好斎半兵衛、二代目流光斎、蘭好斎ら)に引き継がれたとの説もありますが、彼らの作風は確かに個性的ではありますがより写実的な感じがして、耳鳥斎の様にデフォルメした諧謔味は感じません。
どちらかと云えば、これらの彼の作品における独創的な発想法は、後の宮武外骨や岡本一平などによって再評価され、彼らの狂画やその作風により大きな影響を与えているとされています。
※流光斎如圭は江戸時代の大坂の浮世絵師で、上方役者絵の基礎を築いたとされます。滑稽本や狂歌本、読本などの挿絵も多く描いています。
※宮武外骨は、明治・大正期の我国のジャーナリストで著作家、また世相風俗の研究家としても有名。また岡本一平は、大正時代から昭和期の前半にかけて活動した漫画家・作詞家ですが、芸術家の岡本太郎の父親で俳優の池部良の伯父でもあります。
※狂画とは、ふざけて描いた画やざれ絵・滑稽な絵のこととされています。
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