関東取締出役はこの様な状況に対応するものとして設置され、関東地方(関八州)の天領・私領の区別なく巡察し、治安の維持や犯罪の取り締まりに当たった他、風俗取締なども行った。
また出役は、無宿や犯罪者・悪党の追捕といった警察行動だけではなく、農間余業者や在郷商人の実態掌握を重視しては農間余業調査を度々実施、新規の余業者や渡世人の増加を規制して農村秩序の崩壊を防ぐ政策を実施した。
※農間余業調査については、江戸幕府が明和から天保年間(1764年~1844年)にかけて、関東地方の村々で農間余業に従事する農民の数やその業種、営業開始年などを調査して、その把握に努めたことを云う。更にこの調査に加えて職人の手間賃の規制などの商業統制にも着手し、経済面からも農村の衰退・解体化に対応しようとしたとされるが、この様な対策を農村末端にまで浸透させる方策としては、改革組合村を編成して組合村単位に調査・統制を進めた(後述)。ちなみに、関東地方での初見は明和3年(1766年)の相模国足柄上郡金井島村の商人書上帳においてであるが、この後、この農間余業調査は繰り返し実施されたとされる。
特に幕府は、博徒の存在に手を焼いていた様でもある。出役の創設に先立つこと38年前の明和4年(1767年)に、時の老中から勘定奉行宛に次のような通達が出されているが、その内容には「近時、関八州と甲州に博徒がはびこり、彼らに賭博へ誘い込まれた農民は百姓仕事を疎かにするばかりか、挙句(あげく)、すべてを博徒に巻き上げられ、村を逃げ出す者も多い。これを放置すれば、村は疲弊し田畑は荒れ、年貢取り立てに支障をきたすこと必定。よって、素行不良の者、賭博常習者及び身分不相応な身なりをしている者は、噂を耳にしただけでも即刻捕らえ、取り調べること。仮に誤って捕らえたとしてもお構いなし。そうして、農業専一にさせるよう、各代官に指示すべきこと」といったことが記されており、いかに幕府が博徒の急増に困惑していたかが窺える。
だがこうした通達が出されても、旧来の郡代・代官といった職務のもとの組織では、既に述べた通りに警察権の実効ある行使には限界があり、数十年を経た後に、改めて出役の創設に踏み切らざるを得なかったのである。
※有名な博徒の親分・国定忠治も関東取締出役・中山誠一郎の手の者に捕縛されて処罰される。関東地方(関八州)内においては管轄に制限が無く、以前の代官所の属吏に比べてはるかに機動力を帯びていた彼らは、広域警察として一定の成果を挙げたとされる。
こうして関東取締出役が置かれる。関東地方(関八州)における無宿や博徒などを取締り、天領(幕府直轄領)だけではなく、各私領への警察権も認められた。その警察権力は絶大で、本来、出役の地位は町奉行所の同心などよりも高い訳ではなかったが、総付き(ふさつき)の十手を持ち、軽微な犯罪に対してならば、処罰の裁量権限(百叩きの刑罰まで)をも有していた。無宿や犯罪容疑の濃い者に対しては、有無を言わさず強制捕縛に踏み切り、手向かいをすれば討ち捨て御免とされた。
文政10年(1827年)には、「御取締筋御改革」の触に基づき関東取締出役の活動を補完する役割を担う改革組合村が編成された。この改革組合村は関東地方(関八州)内の複数の村で組合を編成し、そこに寄場役人や大惣代・小惣代といった役が置かれ、其々その組織を運営した。こうした関東取締出役の活動を前提とした関東地方(関八州)の行政改革は、一般的に“文政改革”と称されるが、この改革組合村の設置と活動実態に関しては後編にて詳述する。
以上の様な経緯から創設された関東取締出役は、その実態は多少とも変化しながらも、慶応4年の徳川幕府の倒壊、ないしは明治初年頃まで活動を続けていくことになる。
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