【古今東西名将列伝】 ヘルマン・ホト(Hermann Hoth)将軍の巻 〈3JKI07〉

ロンメルの様な派手さはないものの、職人肌でいぶし銀の様な戦闘指揮ぶりで現場の将兵からの信頼は厚かったとされる“ホト親父(Papa Hoth)”ことヘルマン・ホト(Hermann Hoth)将軍(最終階級は上級大将)。小柄で華奢な体躯ながら、快活で明るく部下想いの彼は、若い兵士たちからも絶大な人気を得ていた将官であったと云う。また現在でも、グデーリアンやマンシュタイン等に次ぐ卓越した戦車戦術の大家として評価を受けている軍人である。

 

ヘルマン・ホト将軍

ヘルマン・ホト(ホートとも)は、第二次世界大戦で主に装甲部隊司令官として活躍した独軍の軍人である。1885年4月12日、旧プロイセン領のブランデンブルク州ノイルピンで、軍医将校の家に生まれた。

1896年にグロース=リヒターフェルデのポツダム幼年学校に入学。1904年2月27日には士官候補生として第72歩兵連隊に配属された。1905年1月27日、少尉に任官、1912年6月19日には中尉となる。

その後、陸軍参謀本部に勤務中に第一次世界大戦が勃発。東プロイセンの第8軍の参謀を経て1914年11月8日、大尉に昇進した。

以降、歩兵(猟兵)中隊長や同大隊長、師団及び軍団司令部の参謀将校、そして1916年よりは陸軍航空隊司令部付きの参謀となり、第49航空訓練大隊長等も務めた。

 

敗戦後、1919年6月にはゲオルク・ルートヴィヒ・ルドルフ・メルカー(Georg Ludwig Rudolf Maercker)提督率いるドイツ義勇軍に所属してテューリンゲン州ゴータのソヴィエト協議会(政府)の鎮圧に参加した後、ドイツ国軍(ワイマール共和国の国防軍)に採用され、1920年12月以降より国軍省に勤務、1921年からは陸軍編成部に配属された。1924年1月1日に少佐となる。1925年にシュテッティンの第2歩兵指揮官付き作戦参謀を数か月務めてから国軍省に復帰して陸軍訓練部に所属したが、この当時、訓練部長はブロンベルク(後の国防相、最終階級は元帥)で、その部下にはカイテル(後のドイツ国防軍最高司令部総長、元帥)がいた。

1929年よりポンメルンのシュタルガルト駐屯の第4歩兵連隊の第1大隊長に任命され、1930年2月1日に中佐へと進級した。1930年11月よりベルリンの第1集団司令部の参謀を務め、1932年2月1日には大佐となり、 同年10月よりブラウンシュヴァイク駐屯の第17歩兵連隊長を務める。1934年2月1日にリューベック地区防衛司令官となった。同年10月1日、リーグニッツの第3歩兵指揮官に転じると同時にいよいよ少将へ昇進、遂に将官となった。

1935年10月15日に第18歩兵師団長に補され、1936年10月1日、中将へ進級、1938年11月1日に歩兵大将となる。そして同年11月10日、第15(自動車化)軍団長に就任した。この第15軍団は、2個の自動車化歩兵連隊と1個装甲(戦車)大隊から成る第2軽師団(Ⅰ号戦車とⅡ号戦車、併せて85輛が配備)と第3軽師団(Ⅱ号戦車とチェコ製35t戦車、併せて80輛が配備)で構成された自動車化部隊であり、当時はまだ過渡期ではあったが、後の装甲軍団の先駆けとも云える精鋭部隊であった。

 

1939年9月1日からのポーランド侵攻(第二次世界大戦の勃発、“ファル・ヴァイス白の場合」作戦)に際しては、第15軍団はゲルト・フォン・ルントシュテット将軍(当時は上級大将、後に元帥)の南部方面軍麾下の第10軍(ヴァルター・フォン・ライヒェナウ将軍指揮)のもとで、ワルシャワ東方へと突進して、ポーランド軍主力を捉えて殲滅することに大いに貢献した。

目覚ましい進撃を果たし、歩兵部隊出身のホト将軍はこの時の作戦で装甲部隊の運用を実戦を通して学び取り、同年10月には騎士十字章を受章している。

チェコ製35t戦車を先頭に休止中の独軍装甲部隊(1940年5月~6月の撮影)

翌1940年の西方電撃戦(西方戦役、“ファル・ゲルプ「黄の場合」”作戦 ~ “ファル・ロート「赤の場合」”作戦)においても、A軍集団(ルントシュテット将軍指揮)麾下のギュンター・フォン・クルーゲ上級大将(後に元帥)率いる第4軍に所属したホト指揮下の第15軍団は“ホト装甲集団”と呼ばれ、作戦開始早々にミューズ河の渡河一番乗りを果たし、一躍勇名を馳せた。そして仏軍・第9軍を圧倒しながら前進を続けた。

その後、ディナン西方12kmのフラヴィヨンでは、シャールB型重戦車を保有する仏軍の第1機甲師団(ブリュノール少将指揮)が第15軍団に反撃を試みたが、瞬く間に全滅の憂き目にあう。

以後、進撃を続ける第15軍団は、英仏の連合軍をソンム河で南北に分断して北側の敵軍をダンケルクへと追い込み、次いでフランス北部海岸沿いにノルマンディーからブルターニュへと西進して、6月19日にはブレストの攻略に成功した。

独軍 8.8cm FlaK 18 高射砲

この時の第15軍団には、第5と第7の両装甲師団併せて552輛の戦車が配備されており、また第7装甲師団の師団長は後に勇名を馳せるエルヴィン・ロンメル将軍(当時は少将、最終階級は元帥)その人であった。

また、5月21日にダンケルク南方80kmのアラスで英軍の王立戦車連隊及び第5と第50自動車化歩兵師団による反撃を受けた第7装甲師団が、ロンメルの陣頭指揮により8.8cm高射砲の水平射撃をもって英軍のマチルダⅡ型戦車を撃退したことはつとに有名な逸話である。

 

こうしてホト率いる第15軍団は、グデーリアンの第19軍団と共に間違いなくフランスを早期に崩壊と導く立役者の一員となったのだった。

さて、フランスが休戦条約に調印(事実上の降伏)すると7月19日にはホトは上級大将へと昇進し、11月16日になると第15軍団は第3装甲集団へ格上げされた。この装甲集団は固有の補給段列を有しない為、実戦での運用では他の野戦軍の傘下に入る形になるが、この頃に至っては、ホトの装甲軍司令官としての実力・手腕は揺るぎないものとして独軍内部に知れ渡っていた。

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