【江戸時代を学ぶ】 関東取締出役(八州廻り)の実像 前編 〈25JKI00〉

その組織・体制

関東取締出役の身分は、関東地区の郡代・代官の属吏である手付(手附)や手代から選任された者たちであり、手付(手附)は御家人から選ばれたが、手代は地方(じかた)に精通した豪農や有力町人の子弟などが幕府・勘定所の許可を得て採用される例が多かった。また、優秀な手代は幕臣に登用されることもあり得たのだった。

手付(手附)は、上記の様に寛政年間(1789年~1801年)以降は主に小普請組から採用された御家人であり、職務内容はほとんど手代と同じであったが、下級ではあるがれっきとした幕臣でその身分は安定していたと云えよう。その為、大きな失態さえ起こさなければ立場や身分が保障されていたから、総じて必要以上には仕事熱心ではなかったとされる。

一方、手代は上記の通り、本来は武士階級ではない身分の者が能力を評価されて代官等に採用された者で、その職に就いている間は事実上の侍の身分であったし、更に業績良好であれば新規召し抱えで手付(手附)に昇格、岸本就美の様に幕臣となることも可能だった。その為、手代に就いた者は真面目で熱心に職務を果たしたと伝わる。

※岸本武太夫就美は、寛保2年(1742年)7月7日生まれの幕臣。生家は美作国東南条郡押入村の庄屋だったが、15歳の時に同国の英田郡倉敷代官の下役に採用される。手代から元締手代を経て勘定奉行手付となり幕臣に取り立てられて、安永9年(1780年)には勘定所詰普請役、支配勘定を経て寛政5年(1793年)に下野国・下総国の天領の内、飯沼地方31ヵ村の代官となる。支配地は文化6年(1809年)頃で、下総国・下野国内で当分預所を含め6万7,454石とされた(『御料郷村多寡記』)。小児の養育・荒れ地起返(おこしかえし)に手当金を支給したり、越後国から入百姓を迎えるなど、“天明の飢饉”後の農村復興に手腕を発揮したと伝わる。文化7年(1810年)11月7日死去。享年69歳。

出役の給金に関しては、一説には新規任命時は手付(手附)・手代を問わず年に10両2人扶持であり、その後、勤続年数が増すにつれて額が増えた(例えば20両3人扶持)とされる。他に巡察時の日当が260~270文あり、巡回先での諸経費は当該の村々(組合村)の負担であり、更に出役には役得による実入りも多かった。また彼らの住居は江戸の御用屋敷だから、金銭的にはあまり不自由は無かった様である。

※上記の給金の話については、いささか疑問が残る。“給金取り”とは“蔵米取り”よりも格式の低い侍が受ける俸禄の受領方法である。民間から抜擢採用された手代ならば納得がいくが、御家人の身分であった手付の場合は既に累代の家禄を有しているのだから、新規任命時に一律10両2人扶持の俸禄支給となるのはおかしい。この場合の“新任”とは“新規召し抱え”を指すのではないだろうか。また享保10年(1725年)における代官所の手代の給金が年間で20両5人扶持とされているので、“新任”の出役も、数年の勤務を経て同等の金額に達したのであろう‥。但しこの件、史料を探したが詳細は不明であった。尚、元禄以降、文政年間くらい迄であれば金1両が現米3俵弱の価値に当たる(1人扶持は=約5俵)と考えられるので、10両2人扶持は計40俵弱に換算可能となろう。ここでの“新任出役給金が厳密に“給金取り”の意であれば、これが収入全て(日当等を除く)となる。だが、足高/役料といった性格の俸禄であると解釈すれば、御家人から選ばれて任じられている手付(手附)には、前述の通りに別途、累代の家禄(蔵米取りで30俵~80俵、知行取りで200石=70~80俵以上の者もいた)が存在している為、(新任者でも)年間の給金40俵を上回る家禄を有する出役には給金は支払われないとの認識が持たれ、(疑問は残るが)家禄30俵の者であれば差額の10俵の支給となると理解するのが正しいだろう。但し、役料は江戸時代の初期、寛文6年(1666年)から天和2年(1682年)までは家禄の多少に関係なく在職中に限り加算支給されたとされるし、後年も一部の高位の役職に限り加算されて給された。

※町奉行所の同心の収入は30俵2人扶持(約40俵=金14両)とされているので、上記の“新任出役”と同じであり、これは御家人の最下位クラスとなる。但し現実には、諸々の付け届けがあり、少なくとも年収の5倍程度(最大は20倍とも)の実入りはあったという説もある。つまり出役も同心も、無役の一般的な御家人よりもはるかに家計は豊かであったということだ。

※江戸時代中頃、金1両が銭4,000文の価値であった。つまり出役は、1回の巡察で2~3両の(日当の合計)手当てを得ていたことになる。

※俸禄や貨幣価値に関する換算レートは時代・時期により変動しており、また諸説がある。

設置当初の文化2年(1805年)6月から暫くは、関東地方を支配する定府の代官であった早川八郎右衛門・榊原小兵・山口鉄五郎・吉川栄右衛門の配下の手付(手附)や手代から2名づつ合計で8名が選ばれて、各人が巡察隊を率いて指定の地区を巡回する形をとったとされる。

※詳しく史料を調べると、この時に関東取締出役を出した関東代官の4名は、久喜陣屋に拠って武蔵国の天領等を支配した早川八郎左衛門信州御影陣屋に拠り信濃国・武蔵国・上野国の天領等を支配した榊原小兵、野州吹上陣屋に拠り下総国・下野国の天領等を支配した山口鉄五郎、上州岩鼻陣屋に拠り天領等を支配した吉川栄左衛門である。

※上記の4人の代官は、各々が自分の配下である2名の枠組の中で、他の配下も含めて部下を流動的に交代させながら活動させた。つまり設立当初はの関東取締出役は、人的には決して固定化された組織体ではなかったのである。

しかし創設されてから10年ほど後には定員は10人へと増加、内8名が2名1組となって水戸藩領や川越藩領などを除く関八州を天領・私領の区別なく廻村して、無宿や博徒らの取締りにあたった。その後、更に治安が悪化してくると本役も12名となったとも云われ(異説もある)、臨時の出役に任命される者も含めると総勢25名にもなる場合があった(その後、幕末に至るほど増員され合計30名前後を数えたともされる)

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