【江戸時代を学ぶ】 関東取締出役(八州廻り)の実像 前編 〈25JKI00〉

当初、関東取締出役には雇足軽や小者が数名、道案内が若干名つき従うのが本来の基本的な構成メンバーであったが(異説在り)、この供回りの総勢は次第に増えていき、やがて極めて多人による行列と化したともされ、一部には30~40名もの従者(雇足軽・小者)や道案内(後述)・八州番太(後述)を引き連れて、出役本人は駕籠に乗り巡察を行ったともされる。

※関東取締出役が巡察・廻村する場合は、本人は騎乗し、雇足軽を2名・小者1名に加えて道案内を数名(2名程度)従えていたとされる。

後述する様に、これが出役の役得意識や権力を笠に着た傲慢さから出た物見遊山・贅沢ぶりを表しているとの意見もあるが、凶悪な悪党集団に対抗する上で、屈強な従者・捕手が多数必要であったことに他ならないとする説もあり、筆者としては確かに一部の不心得者がいたことは事実であり、両者ともに真実に近いのではと考えている。

関東取締出役の巡察・廻村の実態は、例えばある地区へと巡察が決まると当該地区に属する複数の改革組合村で作っている組合に事前に通達が送られ、その地区の惣代(後編にて後述)が道案内(道案内人)を選任する。但し、この関東取締出役を補佐する道案内は一般的な目明し(後述)とは異なり、地元の地理に明るい村役人や身元の確かな堅気の百姓が任じられることが多かったそうである。だが実際の犯罪者捕縛に当たっては、前科者や元犯罪者であり、その世界に精通した八州番太とその子分たちが活躍した。

この様に出役を支援する為の(非公式な)下級役人として道案内が主要な町村毎に任命され、更に番太が手足となって働いたのだった。

但し、巡察の順路もまちまちで決まっておらず、都度、次回の巡回先などを計画していた様である。だが現地で入手した情報や、他の出役からの協力要請などがあれば、提出した行程帳に拘らず、適宜行動の変更は可能であったとされる。

巡察・廻村の期間は凡そ40~50日くらいであり、その後は一旦江戸へと戻っては帰着届けを提出、上司の留役に巡察・廻村の報告を経緯書として届け出た。それに基づき留役は、連絡事項や注意事項を申しわたし、必要があれば江戸に戻っている他の出役との宅寄合、あるいは巡察・廻村に出向いている出役への廻状の送付を命じたりした。

こうして出役が廻村して警察活動に従事する際には、上記の様に其々の土地を管轄(在住)する道案内目明し)や番太を連れて巡回したが、その際の出役のいでたちと云えば、野袴にぶっさき羽織、笠に草鞋、両刀に九寸鉄身の十手(房紐は紫か浅黄)といった様子で、後には華美に流れて白綸子の着流しを着用した者も現れたとも伝わる。

目明しとは、前科者・元犯罪者を手先として犯罪捜査に使うことであり、江戸幕府は正徳2年(1712年)以降、何度も禁止令を出しているがなかなか根絶出来ず、やがて非犯罪者の堅気の人々を捜査協力者に使うことも多くなった。江戸府内では町奉行所や火付盗賊改がこれらを使い、地方では関東取締出役が用いた道案内がよく知られている。町奉行所などでは、三廻(さんまわり、隠密廻・定廻・臨時廻)の同心たちが自身で給金を与えて雇っておく私的な使用人であり、各同心が自筆の鑑札を与えておくだけでの身分で、公的な吏員ではなく、つまり当時の警察機能の末端を担った非公認の協力者だった。だが関東取締出役配下の道案内は、地元町村(組合村など)からの推薦により任命された非犯罪者の場合が多くあり、公的な性格を有していたと云う。

八州番太は、米国の西部劇によく出てくる保安官の様な立場・職務であったが、本来は私的な治安維持活動の担い手として発生した自警団的な職務であり、決して幕府の警察制度に組み込まれた公的な立場の人間ではない。そして大概は多くの子分たちを抱えていた彼らは、その担当地域の農家や商家などから米や大豆などの作物や金品を徴集しては自らの俸給の代わりとしており、まさに“みかじめ料”といったところである。また番太は、必ず白足袋であったとの記録もあり、武器は六尺白樫の寄棒。楠流一尺八寸の大型な鉄六角または八角の十手に赤房を付けて後腰帯に斜めに差した。懐中に鉄製の鉤を付けた捕縄を持ち、股引きに陣々ばしょりに裾をからげ、村々の治安を守っていた。

後編にて詳述する“文政改革”以降は改革組合村が編成され、関東取締出役と改革組合村による治安維持・犯罪取締りの体制が成立するが、在方取締りに関する多くの諸事(施設面や人的・金銭的資源etc.)を改革組合村が負担する形となり、これにより大幅に出役の治安維持能力が向上したと考えられているのだが、それは一方で組合村の側に多大なる犠牲を強いることになった‥‥。

※“文政改革”とは、関東取締出役の治安維持・犯罪取締活動の効果を徹底させることを目的として行われた改革である。文政10年(1827年)2月に関東地方の支配について勘定奉行より「御取締御改革」として触書(ふれがき)と改革組合村の結成が示達された。尚、この触書では、無宿・悪党の取締りとそれに関する費用負担の方法、博奕・風俗・冠婚葬祭・娯楽などに関する奢侈な行いの取締り、強訴や徒党の禁止とその密告制度、農間商人・職人の増加の抑制などが命じられている。後編にて再述。

※またこの場合の組合村とは、“文政改革”により江戸幕府が実施した出役の活動を効果的に支援する目的で村々を組織化した治安維持の枠組み。大・小組合村を編成し、それぞれの組合村役人を名主等から任命し、警察活動の他に農間余業や職人の手間賃などの統制も行った。領主の異同に関係なく近隣の30~70ヵ村を単位として組合村を編成し、取締区域等を設定したものである。こちらも、後編にて再述。

 

次回の【江戸時代を学ぶ】は、“関東取締出役(八州廻り)の実像”の後編として、主に出役の時代による活動内容の変遷とその消滅・解体、並びに彼らが内包した課題・問題点について述べる予定なので、是非、ご期待願う。

-終-

中編 ⇒ 【江戸時代を学ぶ】 関東取締出役(八州廻り)の実像 中編

後篇 ⇒ 【江戸時代を学ぶ】 関東取締出役(八州廻り)の実像 後篇

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