米国人の歌手で作詞・作曲家のボブ・ディランは、結局のところノーベル文学賞を受賞することになったそうですが、過去にはこの賞の受賞を辞退した人たちがいました。
最初は1958年における旧ソ連の作家、ボリス・パステルナーク。そして次は1964年のこと、偉大なフランス人哲学者のジャン=ポール・サルトルです。
パステルナークは当時のソ連当局からの圧力により辞退(後に遺族が代理受賞)したとされているので、自主的に辞退したのは現在のところサルトル只一人です。
ジャン=ポール・シャルル・エマール・サルトル(Jean-Paul Charles Aymard Sartre)は、1905年6月21日にパリで生まれたフランスの哲学者・小説家並びに劇作家。内縁の妻(「契約結婚」の相手)は作家で哲学者としても著名なシモーヌ・ド・ボーヴォワール(Simone de Beauvoir)です。そしてサルトルといえば(パイプと共に一種のトレードマーク化していた感のある)強度の斜視であり、その為もあってか、1973年には右目を失明しています。1980年4月15日に肺水腫により74歳で亡くなりましたが、彼の遺体はパリのモンパルナス墓地に埋葬されています。
サルトルは、実存主義の代表的な学者として1950年代半ば~1970年代前半にかけて世界の哲学界に君臨する事となりますが、その実存主義に関してウィキペディア(wikipedia)では、「人間の実存を哲学の中心におく思想的立場。あるいは本質存在(essentia)に対する現実存在(existentia)の優位を説く思想」と解説していて、また彼は『実存は本質に先立つ』と主張したとも伝わりますが、どうしても哲学に馴染みのない凡人には理解し難い内容であり、その著作を一度読んだくらいでは何を言いたいのかがよく分かりません。
また彼の実存主義は「無神論的実存主義」と呼ばれ、政治的な立場は実存主義的マルクス主義を基盤として(革命的な)社会主義や共産主義の側に立っていたとされますが(ムム、やはり難しい)、この辺は私には無縁の世界のお話でもあり、哲学者サルトルの事跡についてはこれ以上触れないことにします・・・。
尚、彼は哲学書の『存在と無(L’Être et le néant)』や『弁証法的理性批判(Critique de la Raison Dialectique)』などを発表する傍らに、小説家としては『水いらず(L’Intimité)』・『嘔吐(La Nausée)』や自伝的作品の『言葉(Les Mots)』などを著して、世界的に(特にフランスでは)絶大な影響を与えたとされています。
1964年に、サルトルに対してのノーベル文学賞の授与が一旦発表されました。その時の受賞理由は「自由の精神と真実の追求を貫き、文学界に多大な影響を与えた」というものでした。また一説には、同年刊行の『言葉』が選出の一因であるとも伝わっています。
しかし「いかなる人間でも生きながら神格化されるには値しない」とか、独立性の制限など理由に「公的な賞はどれも辞退してきた」と言って彼はそれを辞退しました。
また辞退の理由については他にも「受賞することによって自分の自由が制限されてしまえば自分が目指す可能性の頂点にたどり着けない」・「受賞することで、人々の彼への評価・関心が彼の文学そのものから、“ノーベル賞受賞者サルトル”になってしまうことは避けたい」などとも述べています。
この様にサルトルはあらゆる公的な栄誉を拒絶するという強い信念を持っていたとされていますが、実は上記の理由とは別なものとして、哲学を対象とした賞ではなくて「文学賞」としての受賞が気に入らなかったとか、ダイナマイトなる非平和的な発明をした賞の創設者「ノーベル」に反感を持っていたことなどがあった様ですが、真偽の程は不明です。
そしてこの時、既に数年前から候補者の一人として取り沙汰されていたサルトルは、(1964年10月14日に)ノーベル財団(Nobel Foundation)宛に書簡を送り、「今年も今後も」同賞を受け取ることは無いだろうと伝えていました。しかしこの書簡の到着が遅れた為に、ノーベル賞受賞の決定後に辞退する形となったのです。(2015年1月5日に、通常50年とされる秘密保持期間の満了に伴い開示された資料によって初めて辞退の理由が判明)
因みにサルトルは公的な賞をすべて辞退しており、この数年前にはフランスの最高勲章であるレジオン・ド・ヌール(Legion d’Honneur)勲章の受勲も辞退しており、本人によればコレージュ・ド・フランス(Collège de France、パリにあるフランス最高の高等教育機関)の教授就任も断ったと云います。
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