昭和18年(1943年)1月上旬、第十戦隊旗艦は駆逐艦『秋月』に変更された。1月19日、米潜水艦『ソードフィッシュ(USS Swordfish, SS-193)』に雷撃された輸送船『妙法丸』救援のために出動した『秋月』だったが、米潜水艦『ノーチラス(USS Nautilus, SF-9/SS-168)』から雷撃を受けて大破、司令官の木村進少将も負傷する。そこで木村司令官の後任として、小柳冨次少将(第二水雷戦隊司令官)が第十戦隊司令官に任命された。
1月下旬から2月上旬にかけて、ガダルカナル島からの撤退作戦「ケ号作戦」が実施されたが、この作戦を支援すべく、近藤中将旗下の前進部隊を中核とした重巡洋艦4隻(旗艦『愛宕』・『高雄』・『羽黒』・『妙高』)、並びに戦艦2隻(『金剛』・『榛名』)、軽巡3隻(『長良』・『神通』・『阿賀野』)、空母2隻(『隼鷹』・『瑞鳳』)、駆逐艦『朝雲』・『五月雨』・『時雨』・『陽炎』・『涼風』・『大波』・『初雪』・『敷波』・『嵐』、そして油槽船2隻(『日本丸』・『建洋丸』)という一大勢力が投入された。
前進部隊各隊(本隊、警戒隊、航空部隊、補給部隊)は1月31日にトラック泊地を出撃。2月3日、第一次撤収作戦損傷艦の補充のため駆逐艦2隻(『朝雲』と『五月雨』)は前進部隊から「ケ号作戦」実施部隊にまわされ、ショートランド泊地へ向かう。
その後も前進部隊や東方牽制隊は米軍機動部隊出現に備えて待機したが交戦の機会はなく、「ケ号作戦」成功と共に順次トラックへ帰投した。
以降、同地で待機していた第十戦隊の一部(『阿賀野』並びに第16駆逐隊『雪風』、第10駆逐隊の『夕雲』と『秋雲』)は 5月上旬(8日頃)、第一航空戦隊(空母『瑞鶴』と『瑞鳳』)を護衛して日本本土へと帰投した。
内地へと帰還した『阿賀野』は、6月3日から7月2日まで呉海軍工廠で入渠・整備を行い、13号・21号及び22号の各種電探を装備した。更に13mm 連装機銃2基を25mm連装機銃2基と交換、飛行甲板後端左右に25mm 3連装機銃を1基づつ増備して、25mm機銃は連装2基、3連装4基の計16挺となった。
また、この『阿賀野』の修理・改装中の6月21日附で、第十戦隊の司令官は小柳少将(7月2日以降、第二艦隊参謀長)から大杉守一少将(前海軍兵学校教頭兼監事長)へと交代となった。
その後の7月8日には、陸軍部隊(南海第四守備隊)を宇品港からラバウル島へ輸送する為に出港、再度、トラック島に進出する。
この頃、第三艦隊司令長官の小沢治三郎中将が指揮する4隻の空母(『翔鶴』・『瑞鶴』・『瑞鳳』・『冲鷹』)、重巡3隻(『利根』・『筑摩』・『最上』)、軽巡2隻(『大淀』・『阿賀野』)、水上機母艦『日進』、駆逐艦部隊(第4駆逐隊の『嵐』・『萩風』、第17駆逐隊『磯風』、第61駆逐隊の『涼月』・『初月』・『玉波』)はトラック島へと向かい、7月15日にトラック泊地へ到着した。
7月21日、水上機母艦『日進』、重巡3隻(『利根』・『筑摩』・『最上』)と共に第十戦隊(『阿賀野』、駆逐艦『萩風』・『嵐』・『磯風』・『涼月』・『初月』)はトラック泊地を経てラバウルへ進出した。
この直後、第十戦隊司令官の大杉少将は旗艦を『阿賀野』から駆逐艦『萩風』に変更すると、輸送部隊(『日進』、第4駆逐隊の『萩風』・『嵐』、第17駆逐隊の『磯風』)を指揮してブイン(ブーゲンビル島)へ進発し、この時、『阿賀野』はラバウルに残置された形となった。またブカ島に派遣された第61駆逐隊(『涼月』と『初月』)は輸送任務には成功したが、ブイン隊の方は連合軍の空襲により『日進』を喪失してしまう。
その後の7月24日、外南洋部隊増援部隊に編入された『阿賀野』は第4駆逐隊(『萩風』と『嵐』)をラバウルに残し、重巡『利根』・『筑摩』や『最上』、そして駆逐艦『磯風』・『涼月』・『初月』などと共にトラック泊地へ戻った。
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