【太平洋戦争】 優駿 日本海軍 巡洋艦物語!! 第2回 軽巡洋艦 『阿賀野』 -後編- 〈3JKI00〉

8月6日には、『阿賀野』の艦長が中川大佐(この後の9月1日以降、戦艦『日向』の艦長に就任。更に12月16日より第三水雷戦隊司令官となり翌年7月8日、サイパンで戦死)から松原博大佐に代わる。

さて、トレジャリー諸島への米軍先行部隊が上陸した昭和18年(1943年)10月27日の時点では、ラバウルには以下のような日本艦隊が在泊していた。南東方面艦隊(司令長官、草鹿任一中将)所属の連合襲撃部隊(指揮官は、第五戦隊司令官の大森仙太郎少将)の第一襲撃部隊(大森少将直率)として、重巡『妙高』と『羽黒』及び軽巡『長良』、そして第二襲撃部隊(指揮官、伊集院松治少将)の軽巡『川内』と駆逐艦『皐月』・『文月』・『卯月』・『夕凪』である。

また当時、『阿賀野』 以下の第十戦隊は、「ろ号作戦」にともなう第一航空戦隊所属の航空隊の基地設備等の輸送任務に従事してラバウルに進出中だったが、11月1日、それまでの輸送作戦の任務を解かれた『阿賀野』他の第十戦隊(大杉少将指揮)の駆逐艦4隻(第10駆逐隊『風雲』、第16駆逐隊の『初風』・『天津風』、第61駆逐隊の『若月』)と第31駆逐隊(香川清登大佐指揮、『長波』・『大波』・『巻波』の3隻編成)は南東方面艦隊に編入されて第三襲撃部隊として連合襲撃部隊に所属することになる。

同じ日(11月1日)、ショートランド砲撃へと向かう米第39任務部隊の迎撃に失敗した連合襲撃部隊の第一・第二襲撃部隊がラバウルに帰投したが、そこで米軍がブーゲンビル島のタロキナ岬に上陸したとの報に接し、『阿賀野』を含む第三襲撃部隊も加えて連合襲撃部隊の全力を挙げて陸軍(第十七師団の一部)のタロキナへの逆上陸を支援するとともに、敵艦隊を捕捉・殲滅することに決した。しかし、第三襲撃部隊の駆逐艦『風雲』と『大波』はカビエンへの輸送船護衛の途中であり、また『巻波』はトラック方面で護送任務中の為に、これらの艦はこの出撃には参加出来なかった。

こうして再度、ラバウルを連合襲撃隊が出撃したが、その内訳は主隊(大森少将直率の重巡『妙高』と『羽黒』からなる第五戦隊)、第一警戒隊(第三水雷戦隊司令官の伊集院松治少将率いる軽巡『川内』、駆逐艦『時雨』・『五月雨』・『白露』)、第二警戒隊(第十戦隊司令官大杉守一少将旗下の軽巡『阿賀野』、駆逐艦『長波』・『初風』・『若月』)、そして輸送隊(指揮官は山代勝守大佐で、駆逐艦『天霧』・『文月』・『卯月』・『夕凪』・『水無月』が参加)という戦力であった。

同日22時30分、南東方面艦隊よりの命令で輸送隊は逆上陸を中止、反転してラバウルへと向かい、連合襲撃部隊は戦闘準備を行いながら30ノットに増速してタロキナ沖に突入する事となる。しかし米側は進撃してくる日本艦隊を哨戒機が発見したことで、急遽、迎撃部隊を派遣することになった。

こうして、日本海軍の連合襲撃部隊から揚陸中の自軍輸送船団を守る為にタロキナ沖に急行したアーロン・S・メリル少将指揮の米軍第39任務部隊(『モントピリア』・『クリーブランド』・『コロンビア』・『デンバー』の軽巡洋艦4隻と著名なアーレイ・バーク大佐〈後に大将、海軍作戦部長。また戦後における草鹿任一との親交は有名〉率いる『リトル・ビーバーズ』の名で知られている第23駆逐戦隊の第45駆逐隊〈バーク大佐直率〉の駆逐艦4隻、同じ駆逐戦隊に所属するバーナード・L・オースティン中佐の第46駆逐隊の駆逐艦4隻から成る)は軽巡4隻を中心にして、前衛に第45駆逐隊、後衛に第46駆逐隊を配して連合襲撃部隊を待ち受けていた。

翌11月2日の00時27分、第39任務部隊 旗艦『モントピリア』のレーダーは連合襲撃部隊と思われる目標を探知し、各駆逐隊に散会の指示を出して戦闘態勢を整えた。米軍側の作戦は、タロキナ湾口をおさえた軽巡4隻で進攻して来る日本艦隊を砲撃で圧迫し沖合で停滞させたところを、二群に分かれた駆逐隊が挟み撃ちにするというものであった。

尚、第二次世界大戦期の米海軍の「駆逐戦隊=デスロン(Destroyer Squadron)」は英海軍の「フロティラ(Flotilla)」に近く、我国の「駆逐隊」(駆逐艦3~4隻の小部隊)と「水雷戦隊」(駆逐隊3~5隊と旗艦としての軽巡洋艦を加えた部隊)の中間的な規模(駆逐隊2隊程度に旗艦用の駆逐艦などを加えた編成)の部隊を指す。旗艦は巡洋艦等ではなく、嚮導駆逐艦か通常の駆逐艦を使用することが多い。本稿では「駆逐戦隊」としておくが、史料によってはこれを「駆逐群」や逆に「駆逐隊」などと称している場合もあり、米英海軍の駆逐艦3~4隻の部隊(destroyer division、日本海軍では「駆逐隊」と呼称。本稿でも「駆逐隊」と表記)を「駆逐群」と訳している戦史もあって多くの読者の混乱を招いている。またこの稿では他の史料を参考に「駆逐戦隊」と訳したが、筆者としては「駆逐隊群」などの用語の方がより適切ではないかとも考えている・・・。

次のページへ》   

《スポンサードリンク》