さて、同日00時45分になると、第一警戒隊の駆逐艦『時雨』の敵艦隊発見報告をきっかけに、第39任務部隊と連合襲撃部隊との間に約2時間に及ぶ夜戦(「ブーゲンビル島沖海戦」)が展開されたが、予め米軍側はレーダーにより距離約30kmで日本軍部隊を捉えていたので、(事前の作戦計画通りに)戦闘を有利に進めることが可能であったとされる。
また海戦発生時、連合襲撃部隊は主隊(第五戦隊の重巡『妙高』と『羽黒』)が中央、第一警戒隊(軽巡『川内』、駆逐艦『時雨』・『白露』・『五月雨』)が主隊の左前方、第二警戒隊は『阿賀野』・『長波』・『初風』・『若月』の順に主隊の右前方を航行していた。そして00時51分、第一警戒隊(三水戦・第二十七駆逐隊)の『時雨』・『五月雨』・『白露』の3隻の駆逐艦が敵巡洋艦に対して雷撃(各艦魚雷8本を発射)を敢行するが、その前方を航行していた軽巡『川内』には既に米軍の砲撃が命中していた。
この海戦では、米第39任務部隊は連合襲撃隊の左前方に位置しており、必然的に米側に最も近い地点を航行していた第二襲撃隊の各艦、特に先頭の『川内』が集中砲火を浴びる形となった。上記の様に第二襲撃隊の各駆逐艦も魚雷を放ち反撃を試みるが、米軍側に深刻な損害を受けた艦はなかったとされる。そして00時52分には駆逐艦『白露』と『五月雨』が接触・損傷して戦線から退避・離脱し、01時00分頃には『川内』の主機械は停止して舵も損傷し、航行不能となった。
この様に最初に米第39任務部隊と交戦したのは第一警戒隊で、この時点では主隊と第二警戒隊は敵艦隊への攻撃よりも回避運動を優先しており、その混乱の中で重巡『妙高』と駆逐艦『初風』が衝突してしまう。そして第一警戒隊が米軍に対してほぼ単独で応戦する間、主隊と第二警戒隊は遊兵化してなんら戦闘に参加せずに、また連合襲撃部隊指揮官(大森少将)からの適切な指揮・命令もなされなかったとされる。
その後、ようやく大森少将直率の主隊が反撃を開始したのは『時雨』の接敵報告から30分近くも経過した01時16分(18分説あり)であり、なかんずく主隊の右翼側を航行していた第二警戒隊(『阿賀野』・『長波』・『若月』)は戦局にほとんど貢献が出来ずにいた。殊に『阿賀野』は艦隊陣形から離れた位置にあり、敵の砲撃を受けるが被害は無く、また自らは8本の魚雷を放つがすべて外れてしまう。
やがて、特に戦果もなく連合襲撃部隊の各艦はラバウル方面へと避退(01時34分、大森少将は退却を下令したとされる)を始め、被弾し戦場に取り残された『川内』は05時30分に右舷側に傾斜して沈没した。また前述の通り『妙高』と『初風』が衝突して『初風』は艦首を切断、漂流しているところを米軍駆逐艦部隊に攻撃されて撃沈された。
この時、日本側は米軍輸送船団の撃滅並びに上陸拠点の排除に失敗し、軽巡1隻と駆逐艦1隻を喪失したが、米側は軽巡1隻と駆逐艦3隻がわずかな損傷を受けたに止まり、そこでこの海戦は米軍の勝利と判定されたが、オースティン中佐の第46駆逐隊の積極性を欠く行動に関しては批判の声が挙がったとされる。
そして連合襲撃部隊は11月2日の09時以降、順次、ラバウルへと帰投する。主隊と『初風』を除く第二警戒隊(『阿賀野』・『長波』・『若月』)及び『時雨』が09時17分、『白露』が11時00分、殿(しんがり)は『五月雨』で14時10分だったとされる。
この時の連合襲撃部隊の戦闘については、海戦の終了直後から日本軍内で批判の的となっており、大森少将と同司令部の指揮は稚拙且つ消極的とされた。但し米側には、主隊(第五戦隊)による電探(レーダー)射撃の精度を評価する意見も存在した。
尚、この海戦後、大森少将は「拙劣な戦闘の実施に憤慨」した古賀大将(連合艦隊司令長官)により、11月25日附で第五戦隊の司令官を解任されて海軍水雷学校長へと異動となるが、以後、中将に昇進した後に海軍特攻部長に任命されて終戦を迎える。
11月5日のラバウル空襲の直前、第二艦隊司令長官栗田健男中将の指揮下にあった遊撃部隊(重巡『愛宕』・『高雄』・『摩耶』・『鳥海』・『鈴谷』・『最上』・『筑摩』の7隻、軽巡『能代』、駆逐艦『玉波』・『涼波』・『藤波』・『早波』・『島風』の5隻)はラバウルもしくはその周辺海域への進出を果たした。
だが連合軍の空母機動部隊(空母『サラトガ』・『プリンストン』基幹)の空襲に曝された在ラバウルの海軍各隊(遊撃部隊・連合襲撃部隊・第二水雷戦隊)は大被害を被り、この時、『阿賀野』も高角砲を損壊、使用不能となった。
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