11月6日、日本軍はタロキナ逆上陸作戦を開始して、第一支援隊(『阿賀野』と駆逐艦『若月』・『風雲』・『浦風』)と第二支援隊(軽巡『能代』と駆逐艦『大波』・『長波』)、並びに挺身輸送隊(駆逐艦『大波』・『巻波』・『天霧』・『文月』・『卯月』・『夕凪』)がラバウルから出撃した。その結果、上陸作戦自体は成功したが逆上陸した部隊は陸上の戦闘で敗退してしまった。
11月11日、米軍機動部隊は再びラバウル空襲を敢行する。この空襲で第32駆逐隊所属の駆逐艦『涼波』が沈没し、また『長波』も大破、『浦風』、『若月』が若干の被害を受けた。そして港外へと退避した『阿賀野』も艦尾に雷撃を受け魚雷1本が命中して損傷した。3番主砲の直後で船体が断裂、それ以降の艦尾部10m程を捥ぎ取られ、舵と内側のスクリューが2軸とも無くなった。つまり4軸あるスクリューの内 2軸が使えない状態の為に最大速力も18ノットに低下していたが、乗組員の必死の応急処置が功を奏してか、何とか自力航行は可能であった。但しこの時、機銃掃射により『阿賀野』座乗の大杉司令官が負傷している。
これらの空襲を受けて、南東方面艦隊の草鹿司令長官は在ラバウルの水上艦艇のトラック回航を命じ、『阿賀野』と姉妹艦の『能代』、重巡『摩耶』、潜水母艦『長鯨』、駆逐艦『浦風』・『早波』・『藤波』・『五月雨』・『風雲』・『若月』などは各々ラバウルを出港した。そして『阿賀野』は稼働可能な2軸運転にてトラックへと向かったとされるが、艦尾部分が損壊して舵が無い為、残った2軸のスクリューの回転数を調整しながら針路を変更したという。
だが11月12日、トラック南西40浬(かいり)を航行中の『阿賀野』は米ガトー級潜水艦『スキャンプ(USS Scamp, SS-277)』 の二度にわたる雷撃により大きな損害を受けて航行不能に陥った。艦橋下部に命中した魚雷は前部罐室に飛び込み、罐室は浸水して機械も停止。戦死者90名の大損害であり、大杉司令官は『阿賀野』から駆逐艦『浦風』へ移乗して、第十戦隊の旗艦を『浦風』に変更した。
同じ頃、第二水雷戦隊(旗艦『能代』、駆逐艦『藤波』・『早波』・『五月雨』・『風雲』・『若月』)は、潜水母艦『長鯨』とラバウル空襲で大破した重巡『摩耶』を護衛してトラック泊地に向かっていた。
この為、二水戦の一部(『能代』、『藤波』、『早波』)はその他の艦艇とは別れて『阿賀野』隊(『阿賀野』と第17駆逐隊の『浦風』)の救援に向かう。この救援隊は12日の夜半には到着、合流後に『能代』は『阿賀野』の曳航を開始した。
トラック泊地からも軽巡『長良』と駆逐艦『初月』と『涼月』が救援に赴き、13日中には合流したが、翌14日、波浪により『能代』が『阿賀野』の曳航を行う途中で曳索が切れた為、曳航任務を『長良』と交代する。そしてその後、11月15日の20時30分には、ようやくにして『阿賀野』とその護衛各艦はトラック泊地へと到着した。
11月17日、『阿賀野』の松原艦長は航空母艦『翔鶴』艦長へ転任(同艦がマリアナ沖海戦で海没するまで翔鶴艦長を務める)し、後任は松田尊睦大佐となる。
12月3日、負傷していた大杉司令官が退任、木村進少将(初代の第十戦隊司令官)が再び第十戦隊司令官となった。また12月の下旬には、第十戦隊に姉妹艦『矢矧』が編入されたが、当時は『矢矧』は未だ内地にあって訓練中であった。
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