【古今東西名将列伝】 エーリヒ・フォン・マンシュタイン(Erich von Manstein)将軍の巻 (後) 〈3JKI07〉

〈 ヒトラーとマンシュタイン 〉

ヒトラーと懇談中のマンシュタイン(1943年撮影)

マンシュタインは、ヒトラー政権に対するクーデター計画への参加を打診された際には、これを拒否している。この時、彼が「プロイセン軍人は反逆行為は行わない」と言って断ったことは有名である。

後に彼はヒトラーを評して「彼は非凡な人間だった。途方もない知力と並はずれた意思力を持っていた」、「怒りを爆発させては対象の相手を委縮させるやり方は意識的な演出であり、相手によっては距離を保った冷静な対応をして、対象の個性に応じて行動を使い分ける術を心得ており、その相手の提言の意図を承知した上であらかじめ自分の反論を準備していた」と語ったとされている。

しかし自己の回想録の中ではヒトラーを強く批判しており、総統の不当な介入が行われずに、自身の作戦通りに戦争を進めていれば独ソ戦には勝利出来たと主張しているが、今日では当時のソ連軍の圧倒的な予備兵力の存在がそれを完全に否定しているとの声が主流である。

前線視察のヒトラーを出迎えたマンシュタインとリヒトホーフェン(1943年3月撮影)

また「時がたつにつれてヒトラーが倫理感を無くしてしまったことは確かだ。だがそれは後になって分かったことであり、当時は分からなかった」とか「私がヒトラーの倫理感の欠如を初めて目にしたのは1944年7月20日以降の彼の行動を見た時で、それは暗殺未遂事件での裁判や絞首刑などだった。更に戦後になりユダヤ人絶滅計画について知った時にそう思った」とも述べている。

対してヒトラーはマンシュタインに関して、「あの男は私の好みではない、だが、たいした事をやる力がある…」との言葉を残している。しかし彼は、南方軍集団司令官を解任された後には再任されておらず、ヒトラーは彼よりも(再度任用した)ルントシュテットやグデーリアンのほうを高く評価していたとも考えられている。

 

さて、第二次世界大戦中のドイツ国防軍の将軍たちの殆どがプロイセン王国系の職業軍人であり、彼らは厳格な旧体制下の軍人気質を維持・継承していた。そんな彼らの大多数は(軍拡を除く)新興政党ナチスの政治方針や行動には否定的であり、その総帥であるヒトラーを嫌悪していたものの、総統ヒトラーの軍事的発言や指示命令に対して正々堂々と反対意見を述べることが出来る者は極めて少なかった。

しかしマンシュタインが冷静に戦局を分析・判断しては、ヒトラーに対案を具申したり、場合によっては“ナイン(Nein)”と言える数少ない将軍のひとりであったことは確かである。

 

( マンシュタインに関する評価とまとめ )

評価する見解としては、その作戦立案の能力は卓越しており、また彼は装甲部隊の性格と資質を良く理解していた将帥のひとりとして、その運用・機動戦術の展開に巧みであり、実戦での指揮・統率ぶりはグデーリアンやロンメルと共通するものがあったと云う。

タイム誌の表紙を飾ったマンシュタイン

第二次世界大戦での具体的な戦績としては、所謂(いわゆる)“マンシュタイン・プラン”の策定で西方電撃戦に貢献し、独ソ戦緒戦では装甲部隊指揮官としてレニングラード攻撃に従軍、その後、クリミア半島でセヴァストポリ要塞の攻略を成し、以後、スターリングラード攻防戦の後に優勢となったソ連軍を押し止めて撃退し、戦線南部の崩壊を防いだ。次いで第3次ハリコフ攻防戦ではハリコフを再度奪還することに成功してみせ、クルクス戦でも優勢なソ連軍を相手に大打撃を与えている。

その名将ぶりは戦時中の米国でも広く知られ、『タイム』誌の表紙を飾っては「我らの最も恐るべき敵」と評されたのだった。

 

一方でマンシュタインを批判する意見としては、先ずは“マンシュタイン・プラン”作成に関する過大評価が挙げられる。つまり当時、フランス侵攻計画はヒトラーの指示に従って何度も検討・改訂が行われていたとされ、マンシュタインの具申がなくとも同様の計画に至った、との意見もあるのだ。またそうではなく彼の貢献を相応に評価するとしても、現状の評価は過大過ぎる、その成果をまるで彼一人に帰すかの様な形はおかしい、という意見がある。更には、多少異なる作戦で西方戦が開始されていたとしても、英国はともかくとして、政治・軍事的に旧態依然としていたフランスが電撃戦の概念と装甲部隊を有したナチスドイツに結局は敗れたのは、歴史的な必然であったとの考えも根強くあるのだった。

東部戦線での例えば第3次ハリコフ戦等では、ソ連軍を引き付けてその消耗のピークに達したところを叩くことでかろうじて勝利を得たが、クルスク戦後のソ連軍は着実に補給を行ってから進撃する方針へと転換、圧倒的な予備戦力の差と相俟って、マンシュタインの戦法では全く歯が立たなくなっていく。結局、マンシュタインの勝利の方程式はごく一時的なものであったとされるのだ。

この後、ヒトラーによりマンシュタインが更迭されると、東部戦線での独軍は一挙に瓦解したとの指摘があるが、それは東部戦線の独軍兵力を西側連合軍の新たな上陸・進攻作戦に対処する為に移動したり振り分けたことによるもので、司令官マンシュタインの存在自体はそのことには大して関係がなかったとの意見も多い。

また作戦指揮の面でヒトラーに対して反対意見等を述べた事実を評価する向きもあるが、結果としてはヒトラーの考えが通り、戦争指揮の主導権を奪い取ることは出来きなかった。当時の独国防軍の将帥としての行動・立場の限界を強く批判することは酷かも知れないが、ヒトラーの本質をしっかりと見抜いていたとは言い難く、結局は日和見的な行動に終始することになっていた訳であり、彼の反ヒトラー的な(特に戦後における)言動を必要以上に評価するのも間違いであろう。

ロンメルも「マンシュタイン元帥は天才的な戦略家だ。私は彼を本当に尊敬している。(…部下となることも能わない…)しかし、彼は(ヒトラーの現実を見抜けない)幻想家だ…。」と評したとの話もある。

更に独軍部内には、彼の局地的な戦果や作戦指導における手腕から崇拝者が多かったとされるが、それ故にか、マンシュタインの他者(特に下級者)に対する振舞いや対応はかなり傲慢だったとも云われている。

 

筆者としては、後世においてマンシュタインの評価が高いのは、1944年3月には南方軍集団の司令官をヒトラーによって解任されたことで、その後の東部戦線の崩壊の責を負わずに済んだということが、彼にとっては非常に幸運だったと考えている。その後も継続して同様の地位に就いていたとしたら、現在の様なその名声を維持することは出来なかったかも知れない。

結局は、誰が担っても最後は同じ結果が待ち受けていたのだろうが、まだなんとか反撃が可能な時期に舞台を去ったことで、多くの人々に優秀な軍人・稀代の智将としてのイメージを残すことに成功したのであろう…。

-終-

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