【古今東西名将列伝】 エーリヒ・フォン・マンシュタイン(Erich von Manstein)将軍の巻 (後) 〈3JKI07〉

ホト将軍と食事を共にするマンシュタイン

マンシュタインはヘルマン・ホト(Hermann Hoth)上級大将率いる第4装甲軍を指揮下に収めると、二つの軍団の集結に着手する。

チル河とドン河の合流点で第48装甲軍団(12月1日よりオットー・フォン・クノーベルスドルフ/Otto von Knobelsdorff 装甲兵大将が指揮、第11装甲師団や第336歩兵師団等が基幹)は東部戦線全域からかき集められた援軍部隊を収容・再編成、同時期にフリ-ドリヒ・キルヒナー(Friedrich Kirchner)装甲兵大将率いる第57装甲軍団が、コテリニコフスキー付近で(第6装甲師団、第23装甲師団と第17装甲師団により)編成されてスターリングラードに向けて進撃を開始した。

※この救援作戦には、フランスから到着した強力な第6装甲師団(戦車136台配備)も含まれていた。またマンシュタインはこの師団について「卓越した師団長エアハルト・ラウス(Erhard Raus)少将(最終階級は上級大将)と、第11装甲(戦車)連隊長ヴァルター・フォン・ヒューナースドルフ(Walther von Hünersdorff)大佐(最終階級は中将、後述)」の名を特に挙げて賛辞を送っている。

※この時の救援作戦では独軍は新装備を持ち込んでおり、88mm砲を搭載したVI号重戦車「ティーガーI」も投入されていたが台数はごくわずかであり、他には75mm長砲身搭載のIV号戦車などが配備されていた。

だが12月7日、ソ連軍の第5戦車軍・第1戦車軍団(V・V・プトコフ少将指揮)は、独軍第48並びに第57の両装甲軍団のスターリングラード救援作戦を妨害する為にチル河を渡り行動を開始、同月10日にはソ連軍・第5機械化軍団(M・V・ヴォルコフ少将指揮)が、更にその西方で独軍への攻撃を始めた。

スターリングラード近郊を進撃する独軍装甲部隊

しかし、この動きに対抗したヘルマン・バルク(Hermann Balck)少将(最終階級は装甲兵大将)率いる独軍・第11装甲師団の大活躍により辛うじてソ連軍の突破を封じたが、第48装甲軍団の被害は大きく、そこで第57装甲軍団から第17装甲師団が救援に赴いたが当初のスターリングラードの第6軍救援の勢いは大きく削がれてしまう。

この頃、ソ連軍のニコライ・フョードロヴィチ・バトゥーチン(Николай Фёдорович Ватутин)大将率いる南西部正面軍は、スターリングラード北西のドン・チル両河の西岸に着陣していたホリト軍支隊とイタリア軍の第8軍やルーマニア軍・第3軍に対して攻勢を開始する。瞬く間にイタリア軍は壊滅、その後、このソ連軍の中でも第24戦車軍団(V・M・バタノフ少将指揮)がタツィンスカヤの中央飛行場(スターリングラードへ空中補給を実施していた独空軍基地)まで突進して、そこを占拠してしまう。

※ホリト軍支隊は、カール=アドルフ・ホリト(Karl-Adolf Hollidt)歩兵大将が率いた応急編成の部隊。当初は第17軍団、ルーマニア第1と第2軍団の残存部隊などで編成された。1942年12月27日には第29軍団とミート軍団を編入してホリト集団軍に拡張した。尚、このホリト将軍に関しては後述する。

※軍支隊は“Armeeabteilung”の訳語。(単なる)支隊や(臨時・応急の)作戦集団と表現されている資料もある。ある特定の作戦や臨時対応の為に編成された小規模の軍もしくは大規模の軍団レベルの兵力。本来はあくまで臨時の編成であり独自兵站を持たない。

ヒューナースドルフ中将

またこのソ連軍の攻撃に対処する為に、マンシュタインは第48装甲軍団を防御作戦に転用せざるを得ず、当初の予定より1週間程遅れて12月12日から開始されたスターリングラードの第6軍救援作戦には、第57装甲軍団(戦車233両装備)のみが当たる形となった。

こうして第6軍の兵員27万人の救出作戦『冬の嵐(Unternehmen Wintergewitter)』が始まったが、作戦2日目からこの時期には珍しく豪雨となり、硬い雪原は一転して泥濘と化した。この時の救援部隊の先鋒(第6装甲師団・第11装甲連隊長のヒューナースドルフが率いる『ヒューナースドルフ戦闘団』)は何度もソ連軍に阻まれながらもアクサイ川を突破、スターリングラードまでの(攻勢発起点から)距離100kmの内、12月19日には残り48kmまでの地点(ヴァシリエフカ村)に迫った。

※第二次世界大戦における独軍の戦闘団(カンプグルッペ、Kampfgruppe)とは、小さいものは中隊規模から、主としては連隊規模の諸兵科連合部隊のことであり、本来は臨時編成だったが後には常設に近い形で存在しており、1944年型の装甲師団は2~4個のカンプグルッペで編成されていた。ちなみに戦闘団の呼称は、その団長となる基幹部隊の隊長名をつけることが多かった。

スターリングラード市街戦を戦う独軍兵士

ここまで来ると、ドン軍集団の救援部隊の先鋒と第6軍の外縁守備部隊は夜間には互いの照明弾が視認可能な距離にまで近づいたが、しかし第6軍は一向に脱出行動を開始しなかった。

痺れを切らしたマンシュタインは、情報参謀アイスマン(Eismann)少佐を空路で第6軍司令部に派遣して、『冬の嵐』作戦に呼応してソ連軍包囲環の突破を図る『雷鳴(ドンナーシュラーク/Donnerschlag)』作戦の発動を強く要求したが、ヒトラーの死守命令に忠実な第6軍司令官フリードリヒ・パウルス(Friedrich Paulus)上級大将(後に元帥)と参謀長のアルトゥール・シュミット(Arthur Schmidt)少将(後に中将)に拒否されてしまう。

フリードリヒ・パウルス元帥

この時、パウルスは厳しい包囲戦に晒された心労から体調を崩しており、シュミット参謀長がパウルス司令官よりも強い発言力を有して第6軍の実質の指揮権はシュミットが握っていたとされ、第6軍は燃料不足や負傷兵の搬送が困難である為に動けないとの回答をしたとされる。

マンシュタインは、第6軍は必死で持久すれば国防軍最高司令部(OKW)と空軍が必ず補給を実行してくれると信じているのだと推測した。更に燃焼の不足などの理由から大部隊の脱出の成功は困難であると判断したのだろう、とも考えた。そこでマンシュタインは、ヒトラーにスターリングラードの死守命令の撤回を求めたが、ヒトラーはパウルスの主張を追認して、結局は命令の変更は行われなかった。

この様な状況下、同月23日にはマンシュタインは救援作戦を一時中断する。そして24日には強力なソ連軍・第2親衛軍の反撃に遭遇してドン軍集団の先鋒部隊は退却を始め、再び100km近くも押し戻されてしまった。そして26日になると、ホトの第4装甲軍を失っては東部戦線の貴重な機動予備兵力が無くなる為、戦線全体の崩壊を危惧したマンシュタインは第6軍救援活動の継続を正式に断念し、ドン川南部からの全面的な撤退を決断し、ドン軍集団の退却はソ連軍からの追撃を受けながらも1月中には完了した。

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