一方、遡ること12月16日にはロストフ奪回を企図するソ連軍の強力な攻勢によって、カフカスにあったヴィルヘルム・リスト(Wilhelm List)元帥率いるA軍集団がソ連軍による包囲の危機に陥った。ロストフはA軍集団に対する補給とその為の鉄道路線の要衝であったが、この地を防衛するフレッター・ピコ軍支隊とホリト軍支隊は翌年1943年1月3日にはヒトラーの現在地死守命令に反してドネツ河まで撤退しなけらばならなかった。
※フレッター・ピコ軍支隊は、マクシミリアン・フレッター=ピコ(Maximilian Fretter-Pico)砲兵大将に率いられた応急編成の部隊で、第304歩兵師団、第3山岳師団等から成る。フレッター=ピコ将軍は後に第6軍やフレッター=ピコ軍集団の司令官などを務めた。
その後、このA軍集団の撤退は1月27日にヒトラーがようやく許可を出して危ういところで成功するが、片(かた)や、第6軍の救援は絶望的となった。但し、A軍集団が撤退出来た要因はスターリングラードの第6軍を包囲する為に大量のソ連軍が拘置された為に、A軍集団への攻撃に強力な部隊を割けなかった事ともされている。即ち、パウルス率いる第6軍がスターリングラードを死守して持久抵抗を続けたことは、カフカスからのA軍集団の撤退を助ける為だったとの解釈が可能であり、これが実質的にこの年のソ連軍の冬季作戦全般の結果=“戦況を楽観し過ぎた結果のジリ貧”に影響を及ぼしたとも云える。
さてスターリングラードでは1月9日、第6軍はソ連軍から降伏勧告を突きつけられるがヒトラーがこれを断固拒否する。これに関しては、ヒトラーの軍事的決定を再三にわたり非難しているマンシュタインも、「断固、ヒトラーの決定に同意だった」と後に述べている。その理由としは、上記の様に第6軍を包囲している多くのソ連軍部隊が自由になったら、東部戦線の南方地区全域に展開している独軍に対して恐るべき脅威をもたらすこととなり、可能な限り自分の担当戦域で一人でも多くの敵軍を拘束しておくのがパウルスと第6軍の義務であったとしているのだ…。
1月30日のナチス政権発足10周年の記念日に、ヒトラーはパウルスを元帥に昇格させて、“ドイツ陸軍史上、降伏した元帥はいない”という史実を引き合いに出してパウルスにプレッシャーをかけた。しかし翌31日、パウルス司令官とシュミット参謀長以下の幕僚がウニヴェルマーク・デパートの地下室に置かれた司令部を出て、ソ連軍の第64軍司令官ミハイル・ステファノヴィチ・シュミロフ(Mikhail Stepanovich Shumilov)中将に降伏する。
2月2日には、トラクター工場を中心に抵抗を続けていたカール・シュトレッカー(Karl Strecker)上級大将が指揮する第11軍団が投降し、独第6軍の徹底抗戦は終了した。
直ちにソ連は勝利を宣言し、ここにスターリングラード攻防戦は終結した。モスクワではクレムリンからの祝砲が轟いたが、ドイツではラジオで「彼らは死んだ、ドイツが生きていくために…」と第6軍将兵の死を讃え、ベートーヴェン作曲の交響曲第5番『運命』を放送した。そしてナチス宣伝大臣のヨーゼフ・ゲッベルス(Joseph Goebbels)は、全国民が3日間にわたり喪に服すことを発表した。
そしてこのスターリングラード攻防戦は独ソ戦の趨勢を決し、第二次世界大戦の全局面における決定的な転換点のひとつとなったとされる。
スターリングラード攻防戦終結の直前、1月29日にはソ連軍の南西部正面軍がドニエプル河まで進出し、ドン軍集団とA軍集団の分断を目論んでその連絡線を遮断し、クリミア方面へと追いやる『早駆け(ギャロップ)』作戦を実施。2月2日になると、ヴォロネジ正面軍が引き続き弱体化した独B軍集団に攻勢をかけて、ハリコフの奪還を狙う『星』作戦が開始された。南西部正面軍の第1と第3親衛軍や第6軍、そしてM・M・ポポフ中将率いるポポフ機甲集団(4個戦車軍団基幹の機甲部隊)、更にヴォロネジ正面軍の第40と第60の両軍や第3戦車軍などが独軍各部隊に襲い掛かったのだった。
1943年2月6日、ヒトラーの招集に応じて総統大本営を訪問したマンシュタインは、ドン軍集団担当戦域のロストフ回廊から撤収してドネツ地域にソ連軍を引き入れて流動的な防御を行うことを進言するが、総統は同地域の死守を強く主張して二人の意見は対立した。
2月12日には前述のポポフ機甲集団に第1と第25の親衛戦車軍団を加えた部隊が、ドネツ河を渡河して独軍の背後に廻り込んでクラースノアルメイスカヤに達したが、独軍はこの地で一時的に彼らの前進を阻止することに成功した。
だがこうした戦況の悪化から、独軍A軍集団はカフカス方面からの撤退を進め、ホリト軍支隊と第4装甲軍も、突出部にあるミウス河以東の地域からの後退を実施していた。そして2月15日にパウル・ハウサー(Paul Hausser)武装親衛隊大将(後に武装親衛隊上級大将)指揮のSS装甲軍団が放棄したハリコフを再びソ連軍に奪回されたヒトラーは、翌16日、直ちにハリコフの奪還をマンシュタインに命ずるが、既に19日時点ではソ連軍の南西部方面軍がドニエプル河目前まで前進していたのだった。
※1942年に編成されたSS装甲軍団は、第1SS装甲擲弾兵師団(LSSAH)、第2SS装甲擲弾兵師団(”Das Reich”)、第3SS装甲擲弾兵師団(”Totenkopf”)、第5SS装甲擲弾兵師団(“Wiking”)の4個SS師団により編成されたいた。またこの時期までは、各師団とも厳密な装甲師団とするには保有戦車や装甲車両の数が少なく、LSSAHを例にとれば1943年8月以降にイタリアに移動した頃になって、ようやく装甲擲弾兵師団(Panzergrenadier Division、更にプラウ作戦以前は自動車化師団/Motorisierte Division)から正式な装甲師団(Panzer Division)に昇格している。尚、この軍団は後に第2SS装甲軍団と改称している。