【古今東西名将列伝】 エーリヒ・フォン・マンシュタイン(Erich von Manstein)将軍の巻 (後) 〈3JKI07〉

こうした状況下、マンシュタインはあくまで戦略的な思考の下、性急な判断とならない様に留意しながら焦らずに反撃の為の戦備を整えていった。またこの時期、ドン軍集団は南方軍集団に改組され新たに第1装甲軍がその戦闘序列に加わった。

そして彼は迫りくるソ連軍に対して、後に有名となる『後手からの一撃(バックハンドブロー)』と呼ばれる機動防御作戦を実施して大打撃を与えることになるのだったが、独軍はこの後の第3次ハリコフ攻防戦の戦果により一時的に東部戦線の立て直しに成功する…。

※マンシュタインの指揮下で度々活躍した第3SS装甲師団“トーテンコップ(Totenkopf)”については、自分の指揮下にあった武装SS師団のなかでは最良の部隊であり、指揮官は勇敢な軍人であったと、その後、偵察飛行中に戦死を遂げたテオドール・アイケ(Theodor Eicke)武装親衛隊大将についても自伝で触れているが、武装親衛隊の創設そのものについては「容赦し難い誤りであった」と辛辣に語り、「もしヒムラーの如き人物の指揮系統から外されて陸軍に配属されていたら、彼らの大部分が喜んだだろうことは確実である」とも述べている。

 

第3次ハリコフ攻防戦での独軍装甲部隊の進撃

同年2月20日以降、ドニエプル河とドニェツ河に挟まれた戦域で独軍の有力な複数の装甲軍団が補給線が延び切って消耗していたソ連軍部隊を南北から挟撃した。

マンシュタインは、先ずはミウス河以東の地域から撤退していたホリト軍支隊を、ミウス河沿いに再展開させてソ連軍の進撃を阻み、第4装甲軍を南方軍集団の左翼に配置、カフカス方面から後退して来た第1装甲軍を南方軍集団の右翼に移動させて、ドニエプル河まで進出したソ連軍の南西部方面軍を第4装甲軍所属のハウサー率いるSS装甲軍団が西方より攻撃、また同じ第4装甲軍の第48装甲軍団が南方から、そして第1装甲軍の第40装甲軍団が東方からと、3方向よりの同時挟撃を開始した。

この攻撃でソ連軍南西部方面軍は、ポポフ機甲集団や第6軍、第1戦車軍が壊滅的な打撃を受けて包囲殲滅されたのだった。ポポフ機甲集団は独軍・第40装甲軍団により撃破され、同軍団は23日には第1装甲軍と合流する。その前日の22日には、第4装甲軍のSS装甲軍団と第48装甲軍団はソ連軍・南西部方面軍の側面に展開中の第6軍と第1親衛軍と叩き、第25戦車軍団の補給路を寸断し、同軍団を打ちのめした。

こうしてハリコフが再び独軍の手に落ちかけると、その防衛の為に既により西方へと進撃していたソ連軍のヴォロネジ方面軍配下の第3戦車軍(P・S・ルイパルコ中将指揮)が引き返したが、3月1日から5日までのハリコフ周辺での激戦で、第4装甲軍の側面攻撃を受けて第40軍や第69軍などと共に撃破されてしまう。

3月7日には、ソ連南西部方面軍を退けた第4装甲軍の第48装甲軍団とSS装甲軍団は、ヴォロネジ方面軍の側面を攻撃する為にハリコフ近郊へと進出、同じ目的でヴェルナー・ケンプフ(Werner Kempf)装甲兵大将率いるケンプフ軍支隊がベルゴロド方面に前進を開始した。

※ケンプフ軍支隊は、ヴェルナー・ケンプフ将軍が率いた部隊。ケンプフは独ソ戦の開戦の時点では第48戦車軍団の司令官であったが、1942年9月に一旦予備役となるが、1943年2月からハリコフを奪還されたランツ軍支隊の指揮を引き継いで新たにケンプフ軍支隊の司令官に就任した。後のクルスク戦にも同軍支隊を率いて従軍(後述)するが攻勢は失敗、前線での司令官職から退く。

第3次ハリコフ攻防戦を戦う独軍

そしてこの戦闘により独軍は3月15日にはハリコフを再占拠し、同時期にはベルゴロドも回復した。またこの反撃作戦の成功により、独軍はドニェツ河からミウス河を結んだ戦線までソ連軍を押し戻すことを実現し、スターリングラードの包囲戦以降続いていた独軍南部地域の危機は回避され、むしろ逆にソ連軍の南翼が崩壊に近い状態に追い込まれたのだった。

ちなみにこの時、ヒトラーはハリコフという都市の奪還に固執したが、マンシュタインは「重要なことは決してハリコフ市街全体の占領ではなく、同地にある敵部隊を撃破し、殲滅することである」と強調した。

 

この第3次ハリコフ攻防戦の結果、独ソ戦の戦線にはクルスクを中心にしたソ連側占領地の突出部が生じた。ここでは戦線が西側へ突き出し、南北に250km、東西が160kmにおよぶ巨大な瘤状の地帯となっていた。

マンシュタインは、この時期の独軍は消耗が激しく、もはや広大な戦線で一斉に大攻勢をかける戦力は無い為、このクルスク地区に局地的な攻勢を行ってソ連軍を激しく叩いて一時的に東部戦線を安定化させることを目論み、クルスク突出部を南北から挟撃する軍事作戦を企図してヒトラーに提案した。

しかしヒトラーは、ソ連軍陣地が強固であることを(作戦に消極的であった第9軍司令官のモーデルと同じ)理由として、当初の1943年5月初旬の作戦開始を6月10日まで延期することを主張したが、中央軍集団司令官のギュンター・フォン・クルーゲ(Günther von Kluge)元帥は、延期すればソ連軍は独軍以上に戦力を増強して態勢を整えるとして延期に反対する。マンシュタインも作戦の早期実施を支持したが、本心では既に時期を逸したとの考えを持っていた様である。

パンターD型中戦車

だが装甲兵総監に就任していたハインツ・グデーリアン上級大将は、新たに投入される新型のV号 パンター(Panther)中戦車には多くの初期欠陥があって作戦の攻撃予定日までの改善は不可能であるとし、この作戦の中止・放棄を主張したが、更にアルベルト・シュペーア軍需大臣もこれに同調したのだった。その結果、同作戦は5月11日には6月中旬まで延期と決まった。

その後、延期に延期が続いたこの作戦の開始日は一旦は7月1日と決まるがこれも再度延期となり、最終的にヒトラーは作戦開始を7月5日と決した。しかしこの作戦開始の遅れがソ連側には有利に働いたとされ、独軍は充分に整えられたソ連軍の防御陣地に苦しみ、作戦は失敗し敗退する事になる…。

ちなみに独軍はこの作戦に東部戦線の装甲車両及び軍用機の内の60%~70%を動員して、その総参加兵力は兵員において90万人規模、戦車及び自走砲が約2,700両、航空機は1,800機(2,600機との史料あり)に及んだが、予備兵力は皆無だったとされる。

その頃、一時的な防御戦法を採用していたソ連軍最高司令部は、次の独軍の主な攻撃がクルスク突出部に向けられるのか、それともハリコフ南方であるのか明確に判断出来なかった。そこで、全正面方面軍(ヴォロネジ・中央・ブリャンスク・西部・南西部と戦略予備のステップ方面軍)に対して強力な防御陣地の構築を指示し、更に第5親衛戦車軍を有するステップ方面軍にハリコフ東方への集結を命じた。

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