【古今東西名将列伝】 エーリヒ・フォン・マンシュタイン(Erich von Manstein)将軍の巻 (後) 〈3JKI07〉

こうして7月5日、マンシュタインは第4装甲軍とケンプフ軍支隊の装甲部隊(戦車並びに突撃砲1,514両)を動員してクルスク突出部の南側面に対する攻勢を開始した。有名な『(城塞)ツィタデレ(Unternehmen Zitadelle)』作戦の始まりである。

クルスク北側の攻撃主体は中央軍集団司令官クルーゲ元帥の下、ヴァルター・モーデル(Walter Model)上級大将(後に元帥)指揮の第9軍が担当していた。そこには第47及び51の装甲軍団が配されていたが、この作戦全体の主な攻撃部隊はマンシュタインの南方軍集団によって、突出部の南側から実施されるものであった。

クルスク戦に参加したティーガー重戦車と装甲擲弾兵

南方軍集団の中核戦力はヘルマン・ホト上級大将率いる第4装甲軍であり、その配下には第48装甲軍団(クノーベルスドルフ装甲兵大将指揮)が所属、そこには第167歩兵師団や第11装甲師団、第3装甲師団にヴァルター・ヘルンライン(Walter Hoernlein)中将(後に歩兵大将)が率いるグロースドイッチュラント(Großdeutschland/大ドイツ)装甲擲弾兵師団が配されていた。またパウル・ハウサー武装親衛隊大将率いる第2SS装甲軍団も含まれており、その編成は第1SS装甲擲弾兵師団、第2SS装甲擲弾兵師団、第3SS装甲擲弾兵師団等から成っていた。

※この作戦中は、新型のパンターD型中戦車で編制されたマインラート・フォン・ラオヘルト(Meinrad von Lauchert)少佐(最終階級は少将)が率いる第39装甲連隊(“ラオヘルト戦車連隊”、第51と第52戦車大隊で構成)がグロースドイッチュラント(大ドイツ)装甲擲弾兵師団の統制下に置かれた。ラオヘルトは8月1日には中佐に昇進し、第11装甲師団第15装甲連隊の連隊長に任命されており、後には第2装甲師団長を務めた。

※作戦開始時にグロースドイッチュラント装甲連隊長であったヒアツィント・シュトラハヴィッツ(Hyazinth Graf Strachwitz)伯爵(予備役大佐、最終階級は予備役中将)は、7月6日には上記のラオヘルト戦車連隊を含む第10装甲旅団の指揮権を与えられ、シュトラハヴィッツ(装甲)戦闘団としてクルスク戦で戦った。また、後に北方戦区で活躍したシュトラハヴィッツ(装甲)戦闘団の活躍は有名。

更に ウェルナー・ケンプフ装甲兵大将のケンプフ軍支隊が第4装甲軍の東側側面をソ連軍の反撃から守る役割を担っていたが、そこにはヘルマン・ブライト(Hermann Breith)装甲兵大将指揮の第3装甲軍団やエアハルト・ラウス(Erhard Raus)装甲兵大将(最終階級は上級大将)率いる第11軍団(5月11日までのラウス軍支隊のこと)や第42軍団が配されていた。

ソ連側では、クルスク突出部北側にはK・K・ロコソフスキー上級大将の中央正面軍の第2戦車軍(A・G・ローディン中将指揮)とN・P・プーホフ中将率いる第13軍、そしてI・V・ガラーニン中将の第70軍が待ち受けていた。同様に南部では、N・F・バトゥーチン上級大将とN・S・フルシチョフ政治委員のヴォロネジ正面軍が強固な陣地を構築しており、そこにはN・E・チビソフ中将の第38軍やK・S・モスカレンコ中将指揮の第40軍、I・M・チスチャコフ中将の第6親衛軍、M・S・ミューミロフ中将の第7親衛軍などが布陣していた。更にその後方には第1戦車軍(M・E・カツコフ中将指揮)と第69軍(V・D・クリウチュンキン中将指揮)がおり、その他の予備部隊として戦車2個軍団と狙撃兵1個軍団が控えていた。

 

さて、いよいよ7月5日の作戦開始日を迎えた独軍だったが、ソ連軍の独軍に対する進撃阻止砲撃が有効に働き、北側戦線での攻撃開始は大幅に遅れてしまう。そしてようやく前進を開始した第9軍の各部隊ではあったが、以後7日間の激闘を経ても、前進した距離は8kmから12kmがやっとであった。12日には独軍は進撃を完全に阻止され、その2日後には撤退を開始するあり様となる。

南部の戦況は、北側の戦線よりも幾分かはマシであった。先ずケンプフ軍支隊はクルスク突出部に対する挟撃攻勢が開始されると、ドニェツ河を渡河してクルスク方面へと旋回する側面攻撃を担当、第3装甲軍団と第11軍団、そして第42軍団が進撃を開始した。しかも彼らの部隊の進出地域がベルゴルドの南に位置していたことから、ソ連軍・ヴォロネジ方面軍のバトゥーチン司令官は、作戦開始の当初は第4装甲軍とどちらが独軍の主攻撃部隊なのか、判断に苦しんだとされる。

クルスク戦で進撃するティーガー重戦車と随伴歩兵

一方、ホトの第4装甲軍では、ティーガーⅠ型重戦車が楔となってソ連軍の陣地を引き裂き、他の装甲部隊の先陣を進んだ。彼らは最終的には35kmほど進撃したが、ソ連軍・第1戦車軍の反撃により前進を阻止されてしまう。そこでホトは、敵(第1戦車軍)を包囲する為に進撃方向を北東へと転じた。こうして第2SS装甲軍団に所属する戦車隊がプロホロフカ駅の近辺まで突進することに成功したのだった。

ところが彼らは、このプロホロフカでP・A・ロトミストロフ中将の第5親衛戦車軍を中心とするソ連軍の猛反撃に遭遇することになった。こうしてステップ方面軍からの応援も含めたソ連軍の大戦車部隊約800両と独軍装甲部隊約400両の戦史に残る一大戦車戦が発生したのだった。

クルスク戦で戦う独軍装甲部隊

独軍はティーガーやパンターなどの戦車の優勢な主砲と強固な装甲、そして新型機関砲を装備した急降下爆撃機 Ju87“シュトゥーカ”の威力で一時優勢に立ったが、投入戦車の半数である400両を失いながらも突撃・肉薄攻撃を継続したソ連軍・第5親衛戦車軍麾下の第18と第29の両戦車軍団の奮戦により、独軍は戦車・自走砲320両を失うという損耗の結果、敗退することになる。

だがホトの第4装甲軍は作戦の成否を諦めずに、依然としてベルゴロド東方への進撃を続ける第3装甲軍団に望みをかけていた。そしてそのブライトの第3装甲軍団は、7月12日にはルジャヴェツまで到達する。

ところが7月13日、ヒトラーにクルーゲと共に呼び出されたマンシュタインに対し、連合軍がシチリアに上陸(7月10日~)し、またクルスク北部でのソ連軍の反撃が強まって味方の攻勢が頓挫したことを理由に、このタイミングでヒトラーからマンシュタインに対して第2SS装甲軍団の西方への移動(転進)命令が出たのだった。(実質上の)作戦中止に同意するクルーゲに対し、互角の戦闘を続けている南部地区ではソ連軍側の損害は甚大であるとして、マンシュタインは「このまま作戦を続行すべき」と強硬に意見具申したとされる。

こうしてマンシュタインは強く抗議をしたが受け入れられず、7月18日には他の第4装甲軍に属する独軍部隊も当初の攻勢発起点まで後退したのであった。また第4装甲軍の東側を進んだケンプフ軍支隊の進軍戦域は起伏が多く林が連なり、装甲部隊の移動には適しなかった結果、当初予定の地点まで到達することが出来きずに、彼らも攻勢の中止を余儀なくされたのだった。

そして史上最大級の戦車戦を含んだこの激戦で、ソ連軍は大打撃(マンシュタインの担当戦区だけでも兵員9万人と戦闘車両1,900両を喪失)を被ったが、既に優位を築いていた戦況には変化は生じなかった。

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