こうして独軍は最終的にはプロホロフカを占領することやクルスク突出部を削り落とすことも出来ず、戦略的な目的を何ら達成することはなかった。確かに独軍は秩序立った撤収とある程度の兵力の温存には成功するが、その後の戦局では天然の要害であったドニエプル河の渡河をソ連軍に許してしまい、クルスクの占拠どころか要衝キエフまで奪回されてしまうのだった…。
つまりクルスク戦は、独ソ戦で独軍が大きな攻勢を行った最後の大規模の作戦であり、ソ連軍が夏期においても勝利した最初の重要な戦闘であった。これ以降、独ソ戦の主導権は完全にソ連軍のものとなり、そして翌年(1944年)の『バグラチオン(Белорусская операция)』作戦によって、独ソ戦の事実上勝敗は決したと云えよう。
その後の8月、再度ハリコフがソ連軍のターゲットとなり、またまたハリコフ争奪戦が始まった。マンシュタインは「なんとしてもハリコフは保持せよ」と厳命するヒトラーとまた対立することになる。
この時、参謀総長のクルト・ツァイツラー(Kurt Zeitzler)歩兵大将(後に上級大将)がマンシュタインの司令部にやって来たが、彼に対してマンシュタインは「統帥部はもはや、どの師団が抽出できるとか、クバンの橋頭堡が保持できるかという個々の問題に首を突っ込む時期ではない。もっと大きな問題を考えるべきだ。ソ連軍はわが軍の南翼を撃滅しようとしているのだ」と強い口調で述べたとされる。
同月3日から大規模な攻撃(『ルミヤンツェフ』作戦、ドイツ側では『第4次ハリコフ戦』と呼ぶ)が開始されたが、独軍の防御陣地も堅固であった為にソ連軍が前線を突破して独軍部隊の後方に浸透することが出来たのは5日になってからであったが、同日にはベルゴロドが陥落して第1戦車軍と第5戦車軍は攻勢発起点から60kmまで進撃していた。
だが6日から7日にかけて、パンター中戦車で構成された戦車連隊に重戦車ティーガーⅠの大隊が加わった強力なグロースドイッチュラント(大ドイツ)装甲擲弾兵師団がアフトゥイルカで防御戦闘を行い、ソ連軍の第40軍の進撃を鈍らせた。
マンシュタインはこの防御戦闘の成功を活用して得意の機動防御を実施しようとしたが、今回は独軍側の消耗が激しく、その意図は挫かれてしまう。8月11日には、ハリコフの北西30km地点のボゴドゥコフで独ソ両軍が激突、初めはソ連軍の第1戦車軍の先鋒3個旅団が壊滅するなど戦況は独軍有利に展開した。しかし翌12日には第5親衛戦車軍が到着・合流して奮戦、13日以降、17日になると独軍側は撤退を開始した。その後、28日頃にはハリコフはソ連軍にまたしても奪回されるのだった。
また、ハリコフ防衛に当たっていたケンプフ軍支隊は、包囲の危機に直面して司令官ケンプフの決断でハリコフを放棄するが、これによりケンプフは左遷され同軍支隊は第8軍と改称、司令官にはかつてのマンシュタインの参謀長、ヴェーラーが任命(後述)された。
9月にはドニエプル河に架かる橋梁を目指して、独軍とソ連軍の行軍競争が始まるが、19日から23日にかけて、バトゥーチンのヴォロネジ方面軍の前衛部隊がキエフの南北でドニエプル河に到達し、26日までには主にキエフ南方地区にて複数の橋頭堡の構築に成功する。
また同じ頃、13日にはトルブーヒンの南部正面軍が独軍の“パンテル防衛線”を突破してクリミア半島に第17軍を押し込めた上で、ドニエプル河へと進軍した。
そしてこの時、800kmもの正面に展開している大部隊をわずか5ヶ所の橋梁でドニエプル河を渡らせ、再度、河の西岸650kmに沿って展開させるのがマンシュタインと南方軍集団司令部の任務であったが、彼らがそれを何とか終わらせた頃には、両軍はドニエプル河に沿った戦域に陣取り膠着状態に入った。
11月3日にはソ連軍の第1ウクライナ正面軍(旧ヴォロネジ方面軍)がキエフ北方のリュテンの橋頭堡からドニエプル河を渡り、6日までにはキエフがソ連軍の手によって解放されてしまった。そしてこの後、彼ら(ソ連軍・第3親衛戦車軍や第38軍、第1親衛騎兵軍団、第60軍など)は急速に西方に進撃することになる。
これに対しマンシュタインは、11月10日から12月19日頃にかけて、第48装甲軍団等を用いて巧妙な機動防御を実施しては幾度かソ連軍部隊の進撃を阻止したが、その年のクリスマスを迎える頃にはプルシーロフ付近で大規模なソ連軍の攻勢が始まり、独軍の戦線は大きく破られてしまう。更に南方の地域では、イワン・ステパノヴィチ・コーネフ(Иван Степанович Конев)上級大将(後に元帥)の第2ウクライナ正面軍がクリヴォイローグ橋頭堡を足場にドニエプル河西岸の独軍防衛戦を激しく侵食していた。