さてここらで、マンシュタインが在任中(1943年2月12日~1944年3月30日)の南方軍集団の主要な部隊(第1装甲軍、第4装甲軍、第8軍、第6軍など)の司令官に触れようと思う。
第1装甲軍を率いるエーベルハルト・フォン・マッケンゼン(Eberhard von Mackensen)上級大将は、アウグスト・フォン・マッケンゼン(August von Mackensen)元帥の息子で軽騎兵の出身。当初は戦車不要論者でグデーリアンを批判していた人物ながら、東部戦線で装甲部隊の運用を身に付け多くの機動戦で活躍した。マンシュタインは、思慮深くて親切な良き戦友と評している。マッケンゼンの第1装甲軍はクルスク戦後に守勢へ立たされたが、その優秀な作戦指揮能力により、第1装甲軍をミウス河の防衛ラインまで撤退させることに成功したが、同年11月7日には第14軍司令官に任命されイタリア戦線へ転任、後にヒトラーと衝突して解任された。
そして第4装甲軍司令官のヘルマン・ホト上級大将だが、「私より年長で、彼は私がまだ軍団長だった頃、第3装甲集団を率いて、装甲部隊の運用に関して非常に経験を積んでいた。彼が自分より年下の軍集団司令官の指揮に最も忠実に服していたというのは、ますます彼に対する評価を高らしめるものであった。小柄で華奢なつくりであったが、元気旺盛でいつも活発、しかも楽しげに振る舞っていたので若い戦友たちの間に人気があった」とマンシュタインは語っている。またこの人については、別稿の主人公として取り上げる予定なので詳細は割愛する。
ケンプフ軍支隊を改組した第8軍の司令官オットー・ヴェーラー(Otto Wöhler)歩兵大将は、第11軍時代にマンシュタインの参謀長を務めていた。ハリコフから退去した後の第8軍を、ヴェーラーはドニエプル川からルーマニアまでの退却戦で指揮したが、当時の第8軍の参謀長は後にB軍集団でロンメルの参謀長となるハンス・シュパイデルであった。またヴェーラーは、1944年1月のコルスン包囲戦(後述)でチェルカッシィからの脱出に成功する。同年8月のソ連軍の『ヤッシー・キシニョフ』攻勢では、包囲された彼の軍集団に属する独第8軍(第10装甲擲弾兵師団など)の一部しか救うことが出来なかったが、同年12月にはハンガリーで南方軍集団司令官に任命され翌年3月まで務めた。
ホリト軍支隊を基幹に1943年3月5日(6日とも)に再編成された第6軍は、カール=アドルフ・ホリト(Karl-Adolf Hollidt)歩兵大将(最終階級は上級大将)がもともとから司令官であった。彼は同年5月、柏葉付騎士鉄十字章を受章して9月には上級大将に昇進した。しかし病気で第6軍司令官を離任、1944年4月には待命/予備役(一時期、軍需生産を管理する職務に就く)となって大戦を生き延びた。
1944年に入り、コルスン包囲戦が発生してソ連軍がドニエプル河近辺で南方軍集団の一部を包囲した。最終的には包囲された独軍部隊は救援部隊と協同作戦を行い包囲を突破、約3分の2の将兵が脱出に成功したが、この戦闘は年が明けた1月、ソ連軍の第1ウクライナ方面軍と第2ウクライナ方面軍により、独第8軍の第11軍団と第42軍団その他の部隊がコルスン=チェルカッシィで包囲され、まさにスターリングラードで壊滅した旧第6軍の再現であり、再度の失策は許されない火急の状況であった。
だがまたしてもヒトラーは、包囲を危惧したマンシュタインやその他の高級将校からの度重なる警告を受けながらも、危険地帯で剥き出しとなっていた第8軍を安全な地域へと撤退させることを拒否したのだった。
1月24日早朝、第2ウクライナ方面軍の第4親衛軍と第53軍は激しい支援砲撃のさなか攻撃を開始、翌日には第5親衛戦車軍が第5親衛騎兵軍団と共に西方へ向かい怒涛の進撃を始めた。翌2月3日、第1ウクライナ方面軍所属の第6親衛戦車軍が第2ウクライナ方面軍の第5親衛戦車軍との接続に成功し、コルスン=チェルカシィ・ポケットとして知られる包囲を完成したのだった。
包囲されたのは約6万名とされ、その中にはヘルベルト・オットー・ギレ(Herbert Otto Gille)武装親衛隊中将(最終階級は武装親衛隊大将)率いる第5SS装甲師団 “”ヴィーキング(Wiking)”やその統制下のワロン人で構成されたSS突撃旅団“ヴァロニェン(Wallonien)”、同じくエストニア人義勇兵のSS装甲擲弾兵大隊“ナルヴァ(Narwa)”も含まれていた。そして包囲された部隊は第11軍団長のヴィルヘルム・シュテンマーマン(Wilhelm Stemmermann)砲兵大将の指揮下で統一の集団を形成した。
※第5SS装甲師団は、武装親衛隊の初期から存在する古参の部隊である。隊員にはドイツ系外国人やフィンランド義勇兵などが多く含まれ、後の武装親衛隊における外国人部隊の先駆けとなった。
悪戦苦闘の末に多くの将兵が脱出地点のリシャンカに到着したが、それはシュテンマーマンの殿軍部隊が自身を犠牲としながら後衛を務め、一方では救出部隊のヘルマン・ブライト(Hermann Breith)装甲兵大将率いる第3装甲軍団の奮戦によるものであった。
第3装甲軍団の先鋭部隊は、指揮官のフランツ・ベーケ(Franz Bäke)予備役中佐(最終階級は現役陸軍少将/突撃隊大佐)に因んで名づけられた重戦車連隊(Schweres Panzer Regiment)“ベーケ(Bäke)” が担った。部隊にはティーガー重戦車やパンター中戦車が多数配備され、更に特別な架橋技術を有した戦闘工兵大隊が所属しており、彼らの大活躍が多くの戦友を救ったのだった。また、スターリングラード攻防戦では独空軍の包囲地域内への補給活動は失敗に終わったが、今回はある程度の成功をみたとも云う。
※第3装甲軍団の編成は、第1装甲師団や第16装甲師団に第17装甲師団、並びに第1SS装甲師団(LSSAH)の他にベーケ重戦車連隊等から成る。
※“ベーケ”重戦車連隊は、指揮官のフランツ・ベーケの名前から命名されたものであり、第503重戦車大隊のティーガーⅠ重戦車34両(35両とも)と第23戦車連隊第2大隊のパンター中戦車46両(47両とも)、そして第88砲兵師団第1大隊(フンメル自走砲装備)という強力な戦車と自走砲が揃った優勢な部隊/戦闘団である。
※ベーケはコルスン包囲戦での活躍によって、2月14日に柏葉・剣付騎士鉄十字章を受章した。後にフェルトヘルンハレ装甲旅団や第2フェルトヘルンハレ装甲師団の指揮官に就任して、ハンガリーやチェコスロヴァキアでの撤退戦に従事した。尚、彼はもともと歯科医で戦後も歯医者を続けたが、戦場では“ドクトル・ベーケ(ベーケ先生)”と呼ばれていた。
さて、包囲陣から突囲脱出を図るシュテンマーマン率いる第11軍団と第42軍団のテオバルト・リープ(Theobald/Theo-Helmut Lieb)中将の部隊を救出するべく奮闘した第3装甲軍団だが、2月19日までにこれ以上、シュテンマーマン集団の兵士を救い出すことは不可能と判断し、リシャンカ突出部からの撤退を開始した。彼らの力で最終的にはリープと約3万5千名(4万5千名とも)の将兵が脱出に成功するものの、シュテンマーマンは包囲環の中で殿軍を担当して戦死を遂げた。
この戦いでは独軍は殲滅を免れ、スターリングラード攻防戦の再来は起きなかった上に、攻撃した側のソ連軍は非常に大きな損害を被ったが、それでも戦局はこの包囲戦以前と比べて更にソ連側の優位となった。以降は、独軍・南方軍集団全体が対面するソ連軍との戦いを支え切れずに、ルーマニア方面への後退戦へと繋がっていくことになるのである。