この後、2月末までにはソ連軍はドニエプル河の西岸沿い全ての地域において、独軍部隊を駆逐していたが、以後もマンシュタインは得意の機動防御戦術を駆使して戦線の崩壊を巧みに防ぎながら部隊を徐々に後退させながらソ連軍の大攻勢を支え続けた。
だが、一旦獲得した地域からの退却を認めないヒトラーは、次第に奪還されていく支配下地域の広がりを知り、大きな苛立ちを募らせていたのだった…。
3月4日、マンシュタインは第1装甲軍を移動させてソ連軍の攻撃目標とされたプロスクーロフ地区の防御に向かわせた。同日、第1ウクライナ正面軍が出撃を開始。7日にはソ連軍の第3親衛戦車軍と第4戦車軍がプロスクーロフに到達したが独軍の第3と第48の装甲軍団に進撃を阻止される。しかし直後にソ連軍の第1戦車軍が応援に駆け付け、21日には第4戦車軍も到着した。24日になるとソ連軍の一部はドニエストル河に達して、独第1装甲軍の背後を脅かした。そして27日には独軍第1装甲軍はカミャネチ・ポジリシキィで包囲されてしまうのだった。
3月15日、この第1装甲軍の救出作戦をめぐる意見の対立からマンシュタインは、「貴官は、いつも退却ばかりしておるではないか」と詰問するヒトラーに対して「この様な事態を招いたのは…全ては、閣下の責任ですぞ」との辛辣な言葉を投げつけた。
また既にこの頃のマンシュタインは、スターリングラード戦後の一方的な戦力差を考慮すると、ドイツの軍事的な勝利は風前の灯であり、なんとか引き分けを狙うことで政治的な和平へと繋げる、それが結局のところ現時点での望み得るドイツにとっての“勝利”なのだと考えていた。即ち彼は、次第にドイツとソ連の総合的な国力の差が顕在化してきたことにも充分気が付いていたのである。
同月25日にマンシュタインの申請に珍しくヒトラーが許可を与えた。その申請とは第1装甲軍による、包囲突破の許可要請であった。こうしてハンス=ヴァレンティン・フーベ(Hans-Valentin Hube)装甲兵大将(後に上級大将)が司令官を務める独軍・第1装甲軍は、包囲された重大な危機から、フーベが敵の意図を的確に読み取って脱出作戦を展開、大きな犠牲を払いつつ突破に成功して20万人の将兵が救われたのだった。
しかし3月30日、A軍集団司令官エヴァルト・フォン・クライスト(Ewald von Kleist)元帥と共にベルヒテスガーデンに呼ばれたマンシュタインに対して、ヒトラーは南方軍集団司令官の解任を通告した。この時、「現在、東方において貴官に向いた任務はもはや存在しまい。今こそふさわしいのは、北方軍集団であの至難な退却を停止させたモーデルのような人物である」とヒトラーは述べたとされる。
※クライスト元帥も同じタイミングでA軍集団の司令官から更迭され、予備役へと編入された。彼の後任はフェルディナント・シェルナー(Ferdinand Schörner)上級大将(後に元帥)である。
※マンシュタインが率いていた南方軍集団は、1944年4月4日に北ウクライナ軍集団と改称され、 ヒトラーの言葉通りヴァルター・モーデル(Walter Model)元帥が司令官を務めた。
またこの更迭については、衆人環視の状況でも堂々とヒトラーに対して異論を述べ、間違いを指摘する事さえ行ったマンシュタインの、陸軍部内に於ける声望に対する嫉妬と不信が強くあったからだと云われている。更に、職業軍人としてのマンシュタインの洗練された作戦立案術と理知的で技巧派の戦闘指揮は、“直観の人”であるヒトラーにはなかなか理解し難く、多くの場面で二人は対立してしまったのだろう。
翌31日、マンシュタインは南方軍集団司令官の座を離れて二度と独軍部隊を率いることは無く、そして彼は予備役に退いたのだった。こうしてソ連軍を含む連合軍の最も恐るべき敵は、ヒトラーの個人的な嫌悪と嫉妬によって第二次世界大戦から姿を消すことになった…。
尚、彼は1945年5月のヒトラーの自殺後、総統/大統領に指名されたカール・デーニッツ(Karl Dönitz)海軍元帥から連合軍との降伏交渉を依頼されるが、これを断ったともされる。