〈 戦後の軍事法廷でのマンシュタインとその最後 〉
以下に、マンシュタインの戦争犯罪に関する裁判の内容とその経過の概要を記すものとする。彼は1945年8月26日に英軍により逮捕・収容された。その後、1947年8月、大戦中の独軍公文書等を調査した結果、同じ旧独軍の将官(元帥)であったルントシュテットやブラウヒッチュ、レープ、そしてキュヒラーらを対象とした訴えと同様に、ニュルンベルク継続裁判における主席検事のテルフォード・テイラー(Telford Taylor)はマンシュタインの戦争犯罪訴追手続きに踏み切る。それは1941年から1942年にかけての独軍が占領したソ連領地域において、マンシュタインが一般市民への不当・不法で殺害を含む残虐な行為に関与していた疑惑が持ち上がった為であった。
だがドイツ占領連合軍の米国 軍政府長官(軍事行政管理官)ルシアス・D・クレイ(Lucius D. Clay)陸軍大将は、英国で収監・拘留されているマンシュタインらの訴追を実行する事はせずに、調査資料等を英国側に送る様にと命令を下した。
その後、英国側のハートリー・ショークロス(Hartley Shawcross)主席検事は、上記の米軍側から送付された資料・書類等を英国の外務大臣アーネスト・ベヴィン(Ernest Bevin)へと転送した。そして英国政府内ではベヴィン外相を中心にこれらの戦争犯罪についての協議が行われたが、この時期、英国政府においては先の戦争におけるドイツの戦犯を裁く裁判の公判維持・継続実施には大きな負担を覚えており、この時の陸軍大臣であったフレデリック・ベレンジャー(Frederick Berenger)や大法官のウィリアム・ジョウィット卿(Sir William Jowitt)らからは、これらの裁判を避けたいという意見が出ていたとされる。更にドイツ占領連合軍の英国 軍政府長官(軍事行政管理官)の空軍大将ショルト・ダグラス(Sholto Douglas)も、この戦犯裁判を実行することには反対の様子であった。
しかしベヴィン外相は戦犯裁判の実施に積極的であり、その結果、未だ協議がまとまらない中で、1948年3月11日にはソ連からマンシュタインとルントシュテットの引き渡し要求が届く。英国政府内ではマンシュタインらが老齢の為に健康上の問題から裁判には耐えられないとして結論を引き延ばす意見があったが、米国で行われていたレープの裁判においても、弁護側の証人としてマンシュタインとルントシュテットの出席が要請された。
こうして、マンシュタインらを裁くことに前向きなベヴィンや新たに検事総長となったショークロスらは裁判の実施についての協議を本格化させた。だがジョウィット卿は依然として裁判開廷に反対しており、また1947年11月1日にダグラスを継いで英国 軍政府長官に就いたブライアン・ロバートソン (Brian Robertson)も、当時のドイツ人たちに不必要な復讐心を増大させる恐れがあるとして裁判の実施に反対したのだった。
この時期、保守党の党首であった英国元首相のウィンストン・チャーチル卿(Sir Winston Churchil)もロバートソンの意見に強く賛同を表明し、時の労働党内閣の戦犯裁判実施方針を激しく批判した。そして、こうした状況から1948年内はマンシュタインの裁判実施の決定は行われなかった。
しかし1949年3月になると、健康状態の検査結果により英国政府は5月5日にはハーグ陸戦条約違反と“人道に対する罪”によってマンシュタインのみ(ルントシュテットは不起訴・除外)を起訴することに決した。
こうして同年8月23日からハンブルクのクリオ・ハウスでマンシュタインの裁判が始まったが、この時の首席検察官は極東国際軍事裁判において英国代表の検察官を務めたアーサー・ストレテル・コミンズ・カー(Arthur Strettell Comyns Carr)であり、マンシュタイン側の弁護士には2名のドイツ人の他に英国々会議員のサミュエル・シルキン(Samuel Silkin)とレジナルド・パジェット(Reginald Paget)が就任した。
そしてこの裁判では、マンシュタインに対して
1. ポーランドにおけるユダヤ人殺害の嫌疑
2. 第11軍司令官当時にソ連軍捕虜7,504人の殺害もしくは餓死させた嫌疑
3. 捕虜をSDに引き渡したことに関する嫌疑
4. 捕虜から独軍の補助兵を強制的に徴募した嫌疑
5. 捕虜6万人を危険な要塞設営や地雷撤去に使用した嫌疑
6. コミッサール指令(ソ連軍政治将校の殺害命令)に従った嫌疑
7. 対ソ戦でホロコーストを実行した嫌疑
8. 第11軍がユダヤ人やジプシーをSDに引き渡した嫌疑
9. クリミア半島に於けるユダヤ人など9万人の殺害への関与についての嫌疑
10 .ソ連領においてパルチザン活動に対する報復としての住民処刑に関わったとの嫌疑
11. パルチザンの即時処刑に関与した嫌疑
12. 占領地住民の強制徴用に関与した嫌疑
13. 占領地住民の強制移送へ関与した嫌疑
14. 1943年のソ連領からの撤退時における焦土作戦実施の嫌疑
等々の訴因が用意された。
裁判の結果、上記の内で「捕虜と住民の強制徴用」や「住民の強制移送」、「捕虜の殺害、SDへの引き渡し」、「パルチザンと政治将校の不当な扱い」、そして「シンフェロポリのユダヤ人殺害を承知していた件」については有罪との判決であった。しかし他のホロコーストへの関与については無罪となり法廷はマンシュタインに懲役18年の判決を下したが、既に拘留されていた期間が除かれて実質は12年の懲役刑に確定した。
尚、マンシュタインが司令官を務めた独第11軍には、オットー・オーレンドルフ(Otto Ohlendorf)親衛隊大佐(最終階級は親衛隊中将)が指揮したアインザッツグルッペン(Einsatzgruppen)のD隊が所属していた。
このアインザッツグルッペンは、ドイツの保安警察(SiPo)と保安部(SD)が独軍の戦線後方で“敵性分子”(特にユダヤ人やロマ、抵抗勢力=レジスタンス/パルチザン、そして共産主義者など)を狩り集めて銃殺・毒(ガス)殺する為に組織した部隊であった。
※ロマとはロマニ系の放浪・不定住民族で、歴史的に少数民族として迫害や偏見を受けてきた。
この部隊は国家保安本部(RSHA)の長官ラインハルト・ハイドリヒ(Reinhard Heydrich)親衛隊大将が創設し実質はRSHAの方針のもとで行動していたが、その指揮命令系統は形式的には国防軍の軍司令部等に属すと見做されていた。そして第11軍に属していたアインザッツグルッペンのD隊は、1941年6月から1942年3月にかけての時期、黒海沿岸やクリミア半島地域で約9万人に上る人々を殺害したことを、その指揮官であったオーレンドルフは後に認めていた。
この為にマンシュタイン(と第11軍司令部)は、アインザッツグルッペン D隊を間接的に支援(移送手段等の提供など)することで、彼らの虐殺行動に力を貸したとされたのである。
裁判でマンシュタインは、「アインザッツグルッペンの行動で私が知っていたのは東部占領地域の住民を政治的に検査するということだけだった」と述べ、そのことを承認した以上の関与は無いと発言し、その虐殺行為に関しては知らなかったと証言した。
だが、第11軍司令部付き将校だったウルリヒ・グンツェルト(Ulrich Guntsueruto)大尉によると、彼がアインザッツグルッペンの残虐行為を目撃したことをマンシュタインに報告した際に、虐殺等が行われている事実を認識しているにも関わらず元帥はそれを止め様とはしなかったどころか、逆にそのことを他言するなと命じられたと述べている。
そしてその時のマンシュタインは、「私は後方のことには責任を持たない。前線のことだけが私の任務だ…」と聞き流したとされ、グンツェルトはこの際のマンシュタインの行動に関して「責任逃れに間違いなく、(人道的な)モラルの放棄である」と憤慨したと云う。
更にニュルンベルク裁判に証人として出廷した際に、米国の精神科医から受けたインタビューの中でマンシュタインが語ったことだが、「(ユダヤ人虐殺については)それがはるか以前から、おそらく1940年か1941年に始まったことを今は知っているが、当時は知らなかった。私は軍人であり、戦争に勝つことだけに専念していた」、「アインザッツグルッペンが何をしていたか私は全く知らなかった。私が着任したばかりの9月頃に悪事が行われていると誰かから時々聞いたことはあったかもしれない。だが私は軍司令官として送られたのであり、ほとんどの時間を前線で過ごした。したがってユダヤ人を集団で撃ち殺しているのを直接見たことは無かったし、それについて信頼できる情報を聞かされたこともなかった。実のところ、私はその組織に対して何も命令できない立場だったのだ」と述べている。
さてこうして、マンシュタインはヴェストファーレンのヴェルル刑務所に収監・投獄されたが、1951年には再度英国の首相となったチャーチルと西ドイツ首相のコンラート・アデナウア(Konrad Adenauer)が彼の釈放について協議の上で合意に達し、非公式ながら1952年には仮釈放となり、翌1953年には健康上の理由を配慮された恩赦により、本来の刑期満了前に正式釈放となった。
釈放後のマンシュタインは新生ドイツ連邦軍の創設に力を尽くし、西ドイツ政府の国防委員会の顧問となる。また1955年には第二次世界大戦に関する回想録『失われた勝利(Verlorene Siege)』を刊行した。そして1973年6月10日夜、西ドイツ南部のイルシュハウゼンで脳卒中により死去し、葬儀ではドイツ連邦軍の軍人達がリューネブルクの墓地に棺を運んだ。享年、85歳であった。
ちなみに、マンシュタインの身長は180cmくらいでドイツ人としては中背だった様だ。また視力が悪く、常に眼鏡が手放せなかった。彼は帰宅すると直ちに軍服を脱いでくつろぎ、軍務に関する話を家人にする事はほとんどなかったとされる。その趣味は、モーツァルトなどのクラシック音楽の鑑賞やガーデニング、そして歴史や語学を勉強すること等であったと云う。