さての1941年も後半に差し掛かると、連合軍各部隊からのジープの配備を望む声が増大、米軍は第二の供給メーカーを探すことになった。そして米陸軍需品科はウィリス社と協議の末、ウィリス社は第二のメーカーに図面と仕様書を提供する代わりに生産量の半分を確保するという合意に達した。その結果、11月10日にはジープの第二の製造メーカーはフォード社に決定するが、こうして結局のところバンタム社はジープの量産契約に参加する事が叶わず、だがこの様にバンタム社が量産から除外された理由は不透明であり、これが後に訴訟問題にまで発展する理由となる。
※最初に試作車を軍に提出したのはバンタム社であり、それを参考してウィリス社やフォード社も試作車を開発したが、最終的にはウィリス社の案が採用され、更にその生産能力不足を補うべくフォード社にも生産が委託された。しかし基本設計や全般的なアイデアはバンタム社が考案・提示したものであり、他の2社はそれを参考・踏襲したに過ぎないと云われている。その後の大戦中、バンタム社は企業規模が小さい事を理由にこのジープの大量生産契約からは排除されて、より生産量の少ないトレーラー(BT-3、終戦までに約74,000台を製造)などの特殊な軍用車輌や魚雷のモーター、航空機の油圧装置等の生産を割り当てられたが、同社は戦後になると業績不振から企業規模を縮小しやがて倒産、1956年にアメリカン・ローリング・ミルズ社に吸収されて消滅した。
こうして1942年から“ウイリスMB”と同一仕様の“フォードGPW”の生産が始まる。需品科曰く、「フォード社の絶大なる大量生産能力を買ってウィリス社と完全互換・同一仕様での製造を委託した」のだった。
但し、全ての部品にフォード社の頭文字 “F”が付けられていた1942年型の“フォードGPW”には、車体後部に大きく社名(“Ford”スクリプト)がプレスされていた。
そしてフロントグリルを1枚プレスものとし、シャーシのクロスメンバーも“ウィリスMB”と比べて一本少なくなっており、また最前部のクロスメンバーの製造方法も異なるなど、互換性の許す範囲内での独自設計となっていた。
ちなみに各タイプの大戦終了までの生産台数は、“バンタムBRC40”が約2,600台、“ウィリスMA”が約1,500台、“フォードGP”が約4,500台、“ウィリスMB”が約36万台、“フォードGPW”が約28万台で、合計が当初の試作車なども含めて凡そ65万台弱とされる。
ジープ(“ウィリスMB”や“フォードGPW”)の派生型には、車体等はそのままに搭載武装を強化したり大型通信機を設置したものなどを別として、単純に車体を延長して乗員数を増やした1/2t タイプや救急車化したものがあったが、更に、同じく全長を伸ばした上に3軸6輪の全輪駆動(6×6)3/4t タイプに改造したものなどが存在した。
この6輪型は“スーパージープ”と呼ばれて小型の兵員輸送車として使用されたり、軽装甲を施したものや、対戦車砲とか高射砲を搭載したタイプが製作され試験に供された。
車体が延伸されただけの4輪型のエンジンは、原則として通常のジープと変わりがなかったが、6輪型“スーパージープ”においては、出力等の強化が試みられた様であるが、それでも使用された部品の約65%が通常型ジープとの互換を保っていたとの資料もある。だが、これらの大型化された車輌が大量に生産されて前線に配備されたという記録は見当たらない。
唯一、派生型の中で大量に生産されたのは、水陸両用の“フォードGPA”であったが、このクルマについては別途の記事で取り上げたいと考えている。
※“フォードGPA”の生産数は、約13,000台弱であった。
こうして最初の試作車が製作されて以降、第二次世界大戦の集結までに膨大な台数、合計で凡そ65万台弱(諸説あり)が製造・出荷されることになる。
これらはその圧倒的な生産量と場所を選ばずに活躍する高性能ぶり故に、連合軍将兵に“ジープ(Jeep)”の愛称で親しまれ、第二次世界大戦下の軍用車両としてのみならず、自動車史に残る傑作自動車となったのであった。
尚、このクルマの、米軍の命名規則に基づく制式名称は、“1/4-TON 4×4 TRUCK(WILLYS-OVERLAND MODEL MB and FORD MODEL GPW)”である。